「MRJ」誕生までの航空機産業の歩み【航空】

「MRJ」誕生までの航空機産業の歩み


【国産初のジェット旅客機「MRJ」が完成】
  日本で初めてのジェット旅客機「MRJ」が完成し、昨年10月18日に三菱重工の小牧南工場で披露されました。MRJはプロペラ機の「YS--11」以来、約50年ぶりの国産旅客機で、ジェット旅客機としては初めてとなります。今年4月から日本やアメリカで飛行実験を行い、2017年には全日空に初号機を納入する計画です。
 MRJ誕生までの日本の航空機開発の歴史を追ってみることにしました。


【大きな期待を受けて、今春からテスト飛行に】

「MRJ」誕生までの航空機産業の歩み - レオナルド・ダ・ヴィンチのスケッチ -
人類は大昔から、大空を自由に飛び回ることにあこがれ、挑戦し続けてきました。レオナルド・ダ・ヴィンチは1490年ころ、楕円形のヘリコプターのような飛行機のスケッチを残し、パラシュートの研究も行っていたようです。
 1785年には、ジャン・ピエール・ブランシャールが水素気球で初めてドーバー海峡の横断飛行を行い、日本人の浮田幸吉が滑空飛行に成功しています。1891年には、ドイツのオットー・リリエンタールがグライダーで2000回以上も空を飛び、操縦技術の会得を目指しました。日本の二宮忠八がゴム動力の模型飛行機を飛ばしたのはこの頃です。
 1897年になると、フランス人のクレマン・アデールが固定翼の自作飛行機を作り、瞬間的な滑走浮揚に成功しますが、正式な飛行とは認められていません。
 このように1800年代までは、気球や人力による飛行実験が行われてきましたが、大空を自由に飛ぶという夢には程遠いものでした。

- ライト兄弟の成功で飛躍的に発展 -
1900年代に入ると動力飛行機が登場して、飛行機の研究・開発は飛躍的に発展していきます。
 アメリカのグスタボ・ホワイトヘッドが1901年、コネチカット州で動力飛行に成功したと主張しましたが公式には認められていません。アメリカの大学教授ラングレイは同年、内燃機関を搭載した模型飛行機の初飛行を成功させます。
 1903年には、ニュージーランド人のリチャード・ピアースが動力飛行機による飛行を試みましたが、操縦不能となって不時着しました。また、ドイツのカール・ヤトーが、動力飛行機で20m飛びましたが、操縦不能となりました。
 こうした挑戦が続く中、1903年12月にライト兄弟が人類の歴史に残る動力飛行機「ライトフライヤー号」での飛行を成功させます。翌1904年には、「ライトフライヤーⅡ」で向かい風なしの状態で離陸し、円形旋回飛行を行いました。
 ライト兄弟の動力飛行機の成功で、飛行機の研究・開発は目覚ましいスピードで進展していきました。
「MRJ」誕生までの航空機産業の歩み - 1910年に日本初の動力飛行に成功 -
日本の飛行機開発は、欧米の技術を学ぶことからスタートしました。
 1900年に徳川好敏大尉と日野熊蔵大尉は、飛行機の操縦と取扱い技術を習得するため、ヨーロッパに派遣されます。そして、1910年12月に、東京の代々木の練兵場でヨーロッパから持ち帰った飛行機で公開試験飛行を行いました。徳川大尉はフランス製の複葉機アンリ・ファルマン機を操縦し、高度70m、滞空時間4分、距離約3000mの飛行に成功しました。同日、日野大尉もドイツ製のグラーデ単葉機で、高度20m、滞空時間1分20秒、距離約1000mを飛行しました。この二人が日本初の動力飛行の成功者ですが、記録や家柄などで徳川大尉が初飛行者だとされることもあります。
 そして翌1911年には、日本海軍軍属技師の奈良原三次が、自作の複葉機「奈良原式2号」での飛行を成功させています。
「MRJ」誕生までの航空機産業の歩み - 第一次大戦を期に高まる飛行機の需要 -
1914年から1918年にかけて、ヨーロッパを中心に第一次世界大戦が起こります。
 第一次世界大戦では、当初飛行機は偵察機として使用されました。その後、敵の飛行機に石や煉瓦を投下したり、操縦士をめがけてピストルなどを打ち込むようになりました。また、敵地上空まで飛んで行って爆弾を投下する爆撃機も開発されます。さらに、航空機による魚雷攻撃を可能にする雷撃機も製造されました。
 戦争当初の飛行機の機体は、鋼管の骨組みに布を張ったものが多かったのですが、次第にアルミ合金を使用した金属製の機体へと変わっていきました。このように、第一次大戦に飛行機が登場することで戦術が大きく変わり、飛行機自体も発展・進化を遂げていきました。
 日本は欧米に比べて飛行機の開発・製造に大きく後れを取っていました。しかし、第一次大戦で飛行機の有用性が示されたことから軍が高い関心を示します。そして、軍の後押しを受け、三菱重工や中島飛行機(現在の富士重工業)、川崎飛行機(現在の川崎重工業)などがイギリスやフランスの技師を招いて開発に取り組んでいきました。

- 零式艦上戦闘機(ゼロ戦)の誕生 -
陸海軍とも、国内企業に多くの開発仕様書を提出させ、試作機を製作させていきます。その性能要求は、当時の国内企業の技術力を上回るものも少なくなかったといいます。最盛期には10社を超える企業が参入して互いに技術を競い合い競い、その結果として日本人の手によって優秀な飛行機が相次いで誕生しました。その代表ともいえるのが零式艦上戦闘機(ゼロ戦)です。
 ゼロ戦は徹底的に軽量化されたため、高い運動能力を誇り、航続距離も大きく伸ばしていきました。日中戦争から太平洋戦争の前半は、その高い性能を生かして敵の戦闘機を圧倒したといわれます。日本海軍の主力戦闘機として1万機以上も生産されました。
 しかし、太平洋戦争後半には、アメリカが戦闘機の改良を図るのに対し、軽量化による装甲の薄さ、エンジン出力の向上、物資や練度の不足などによる工作精度の低下などが相まって、戦闘機として色褪せていきました。
「MRJ」誕生までの航空機産業の歩み - 1952年から航空機産業が復活 -
第二次世界大戦の敗戦で、日本の航空機産業は連合軍によって解体され、技術者は自動車や鉄道など他分野に流出していきました。日本の戦後の急成長には、航空機産業から流出した技術者が大きな役割を果たしたことは見逃せません。
 日本の航空機産業は、1952年のサンフランシスコ講和条約の発効によってGHQから禁止されていた航空活動が解禁されました。日本の航空機産業の再出発は、折からの朝鮮戦争で傷ついたアメリカ軍機の修理からスタートしました。
 当時、世界は大型旅客機やジェット機の登場、超音速機の開発という時代に入っていました。7年のブランクを余儀なくされた日本の航空機産業は世界に大きく取り残されます。このため、防衛庁(現・防衛省)向けにアメリカ製航空機のライセンス生産を手掛けることで細々と技術を蓄積していたのです。

- 日本初の旅客機「YS—11」が誕生 -
当時の通産省は1954年に国産の航空機製造計画をまとめ、これを受けて1959年に官民の共同出資による日本航空機製造が設立されました。ここで官民一体となって、戦後初の旅客機となる双発式ターボプロット旅客機YS—11の開発・製造が進められました。設計にはかつて零式艦上戦闘機などを開発した技術者も加わり、製造は各部品メーカーが担当し、新三菱重工(現在の三菱重工業)が最終の組み立てを行いました。
 1962年に試験機が完成してテスト飛行を繰り返した後、1965年から全日本空輸(ANA)が運航を開始しました。テスト飛行中の1964年には、日本に運ばれた東京オリンピックの聖火を、国内でYS—11「聖火号」が空輸(那覇~千歳)したこともありました。しかし、騒音や操縦性の問題や赤字続きで182機を生産しただけで1974年に生産を中止し、2006年に民間機として最終飛行を行い退役しました。
「MRJ」誕生までの航空機産業の歩み - 日本初の小型ジェット旅客機「MRJ」とは? -
国産初の小型ジェット旅客機「MRJ(三菱リージョナルジェット)」が昨年10月に完成し、今春から試験飛行に入ります。国産機としてはプロペラ旅客機のYS—11以来、約50年ぶりとなります。
 MRJは、経済産業省が2000年前半に策定した環境適合型高性能小型航空機計画に基づいて、三菱航空機が製造したものです。MRJの開発には1800億円もの巨費が投じられましたが、このうち約500億円を国が投じた国家プロジェクトでもあったのです。
 こうして完成したMRJの全長は約35m、座席数は78~92、最大巡航速度はマッハ0・78(時速830m)で、航続距離は最大3300㎞となっています。これは東京から北京、台湾、グアムをカバーできる航続距離となっており、アメリカ全域やヨーロッパ全域をカバーすることができます。
 また、着陸滑走距離が約1400mと短いため、大都市の主要空港と地方都市とを結ぶ「リージェントジェット」としての役割を十分に果たす機能を持っています。

- 「コスト削減と環境性能」を追求 -
かつて飛行機といえば、重厚長大産業の象徴のようなもので大型化が進みました。大型機は多くの旅客や荷物を運べるため経済的にも優れていました。しかし、現在では大型機が満席になるような路線は世界で数えるほどしかありません。
 MRJは、日本が得意とするコスト削減と環境性能を追求した飛行機です。コスト削減のためには、燃費を抑えることが重要です。MRJは機体の主要部分に炭素繊維を導入して軽量化を実現するだけでなく、世界最先端の空力設計技術、騒音解析技術の適応、最新鋭エンジンの採用などにより、大幅な燃費低減を実現するとともに、騒音、排ガスも大幅に削減しています。
 MRJはこうした燃料性能や静粛性を売り物に、世界との競争に乗り出していきます。

- 「MRJ」へ寄せられる大きな課題 -
MRJのような小型ジェット機の場合、利益を出す採算ラインは500機程度と見込まれています。三菱航空機ではすでに400機を上回る注文を受けており、採算ラインが目前に迫っています。
 こんなに早くから注文を受けているのは、飛行機の開発には膨大な費用がかかるため、開発されたら購入するという取り決めを行っているからです。これをローンチカスタマーといい、2008年には全日空が25機を発注しました。その後、日本航空、アメリカのトランス・ステイツ航空、スカイウエスト航空、ミャンマーのマンダレー航空などから発注が続いています。
 小型ジェット機の市場規模は今後20年で、約5000機の需要があると見込まれています。三菱航空機では、その半分は取りたいと高い目標を掲げています。現在、小型ジェット機の市場は、ブラジルのエンブラエル社とカナダのボンバルディア社が大きなシェアを占めています。MRJが競争の激しい小型ジェット機の市場にどこまで食い込めるのか注目されています。
 MRJの部品は100万点にもおよび、自動車の2~3万点を大きく上回っています。MRJの販売が順調に推移することは、飛行機製造会社だけでなく関連する多くの企業に好影響を及ぼし、日本経済にも貢献すると期待されています。
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