世界が注目するミャンマー民主化の行方【国際】

世界が注目するミャンマー民主化の行方


【アジア最後のフロンティアとも呼ばれる国】
 現在、ミャンマーでは急速な民主化と経済改革が進み、世界中から「アジア最後のフロンティア」と呼ばれています。しかし、今日までの歩みは曲折に富み、決して平坦な道ではなかったのです。イギリスの植民地、第二次世界大戦での翻弄、長期軍事独裁政権、欧米諸国の経済制裁、そして民主化運動を経て今日のミャンマーに至っています。このミャンマーが、現在、世界各国から大きな関心を集めています。いま、なぜ「ミャンマー」が注目されているのでしょう。

世界が注目するミャンマー民主化の行方 【ミャンマーの歴史を追って】
- 建国からビルマ戦争まで -
 ミャンマーの歴史は、1044年にビルマ族が作り上げた統一国家パガン王朝が始まりとされています。
 13世紀後半、元の侵攻でパガン朝が滅亡し、動乱の時代が始まりました。14世紀にタウングー王朝が勃興しましたが、1752年に王位継承争いやタイやインドの侵攻などで滅亡しました。その後、1754年にコンバウン王朝が全国を統一し、支配地域を拡大していきました。
 この過程でイギリスと衝突し、第一次ビルマ戦争(1824~26年)が起こりました。さらに、第二次(1852年)、第三次ビルマ戦争(1885~86年)で、イギリスに敗れたコンバウン王朝は滅亡し、1886年にイギリス領インドの1州に組み込まれました。ここからイギリスによる植民地支配が始まりました。

- イギリスからの独立をめざして -
 ビルマ人の独立運動は、第一次大戦中から学生など若い知識人の間で広がりました。1930年代に入ると、ミャンマーの各地で武装蜂起がありましたが、いずれもイギリス軍に鎮圧されました。
 そして1942年、アウン・サン将軍が日本軍の支援を受けてイギリスと戦い、1943年にバー・モウを元首とするビルマが建国されました。しかし、日本の敗戦が濃厚になるにつれ、アウン・サン将軍が率いる国民軍は日本の支配に強く反発し、逆にイギリス側について抗日闘争を展開しました。
 1945年に連合国が勝利すると、イギリスはビルマの独立を認めず、再びイギリスの統治下に組み込みました。その後、イギリスとの独立交渉を経て1948年に「ビルマ連邦」として独立しました。アウン・サン将軍は独立の前年に暗殺されましたが、現在でも独立の立役者として国民の尊敬を集めています。
 日本とミャンマーとのつながりは、このように太平洋戦争の時代に遡ります。独立運動を起こした人は「30人の志士」と呼ばれ、日本軍と一緒に訓練を受けていました。アウン・サン将軍が当時、「面田紋次」という日本名を持っていたのはこのためです。

- 失敗した軍事政権の経済政策 -
 戦後、ビルマ連邦として独立しましたが、少数民族の反乱などで、不安定な状況が続きました。こうした中、1962年にアウン・サン将軍とともに独立運動を戦ったネ・ウィン将軍がクーデターを起こし、全権を掌握して独裁的な軍政をスタートさせました。
 軍事政権は、ビルマ式社会主義体制を目指し、国名をビルマ連邦社会主義共和国に改称しました。しかし、主要産業の国有化など社会主義経済政策によって外貨準備の枯渇、生産の停滞などで軍事政権の経済政策は失敗します。1987年には、国連から後発開発途上国と認定されるまでに至りました。
 こうした軍事政権に対し、国民の不満が増大し、民主化運動が高まりを見せます。この民主化運動の先頭に立ったのが、イギリスから帰国した故アウン・サン将軍の長女アウン・サン・スー・チー氏です。民主化運動が高まる中、ネ・ウィン軍事政権は1988年に崩壊しました。
世界が注目するミャンマー民主化の行方 - 選挙結果を無視する軍事政権 -
 ネ・ウィン軍事政権が倒れた直後、軍部は再びクーデターを起こして政権を奪いました。新軍事政権は1989年、国名をミャンマー連邦に変え、首都の名もラングーンからヤンゴンに改称しました。2005年には首都がヤンゴンからネーピードーに移転しました。
 新軍事政権は総選挙の実施を公約に掲げ、1990年に総選挙を行いました。この総選挙でスー・チー氏率いる国民民主連盟(NLD)が圧勝しました。しかし、軍事政権は選挙結果を無視して民主化勢力の弾圧を続けます。スー・チー氏は自宅軟禁され、国際社会もこれに抗議して経済制裁を実施しました。この結果、ミャンマーは長期にわたって国際社会から孤立し、発展から取り残されることになったのです。

- 2011年から徐々に民主化へ -
 ミャンマーが軍政から民政に移行し始めたのは2011年からです。2010年に20年振りに総選挙が行われましたが、決して公正な選挙とはいえず、スー・チー氏率いるNLDは選挙をボイコットしました。
 しかし、2011年3月に大統領に就任したテイン・セイン大統領は、軍部による一党独裁体制から複数政党による共和制へと大きく舵を切りました。国名もミャンマー連邦からミャンマー連邦共和国に変更しました。スー・チー氏の軟禁解除や、政治犯の恩赦なども実施されました。1962年のクーデター以来、約半世紀続いた軍事独裁政権は終わりを告げ、民主化への道を進むことになったのです。
 ミャンマーの国会は、民族代表院と国民代表院の二院制です。ところが、民主化されたとはいえ、憲法で両院の議席数のうち25%は軍人議員に割り当てられています。軍の政治への影響力が依然として残る体制となっています。
世界が注目するミャンマー民主化の行方 - 2015年の総選挙で政権交代 -
 2015年11月に行われた総選挙で、スー・チー氏率いるNLDが大勝しました。そして、スー・チー党首の側近のティンチョウー氏を大統領に選出しました。軍政が長らく続いたミャンマーで、民主的な手続きで軍出身ではない国家指導者が選ばれたのは約半世紀ぶりのことです。
 軍政下で作られた現行の憲法では、外国籍の配偶者や子供がいる人は大統領になれないと定められ、配偶者や子供がイギリス籍のスー・チー氏は大統領にはなれません。しかし、実質的に政権を率いるのはスー・チー氏だと言われています。それは今年4月、NLDが国政全般に関する助言や提案が可能な「国家顧問」を新設するという法案を提出し、スー・チー氏が国家顧問に就任したことでも明らかです。
 軍人の議員は、スー・チー氏の「国家顧問」就任に反発しており、新政権の今後の国会運営が注目されています。

【飛躍の時代を迎えたミャンマー】
- 民政移行で経済制裁が緩和 -
 ミャンマーの面積は、日本の約1・8倍の68万平方㎞で、ここに5141万人の人が暮らしています。
 広い国土と多数の人口を有するミャンマーですが、軍事政権のビルマ式社会主義政策によって事実上の鎖国状態が続きました。さらに、国際社会からの制裁を受け、半世紀にわたって世界経済から隔離されたような状態でした。このため、経済は疲弊・困窮化し、国民の生活水準はアジアで最低レベルまで落ち込んでいました。
 しかし、2011年の民政移行後、欧米諸国の経制裁が緩和に向かい始めます。こうした中、ミャンマーの秘めた潜在力が注目されるようになり、一躍アジア最後のフロンティアとして脚光を浴びているのです。

- 大きな可能性を秘めたミャンマー -
 アジアで最低レベルまで落ち込んだミャンマー経済ですが、その裏返しとして大きな可能性を秘めています。ミャンマーは多数の労働力を抱えているものの、人件費はアジアでは最低レベルです。労働集約型産業にとって、ミャンマー進出のメリットは計り知れないものがあります。
 また、ミャンマーはタイなどの近隣国に比べてインフラの整備が大幅に遅れています。インフラ整備が、今後のミャンマーの経済発展の大きな鍵となっています。海外の企業にとって、大きなビジネスチャンスが横たわっているのです。このように、民主化が進むミャンマーは、経済発展の余地が大きく残されているため、海外の企業のミャンマー進出が相次いでいます。

- ミャンマーと日本の関係 -
 ミャンマーと日本は、第二次大戦の一時期を除いて良好な関係を続けてきました。独立の支援や、戦後の多額の賠償金の支払いなどから、ミャンマーは親日国だといわれています。しかし、スー・チー氏の軟禁を機に始まった経済制裁で、日本も欧米に追随して、緊急性の高い人道的な支援を除く新規の経済協力を原則として見送りました。
 日本企業の多くは、ミャンマーの安価な労働力や地理的条件などに魅力を感じながらも、経済制裁下での経済活動を見送ってきました。この結果、ミャンマーへの事業進出は中国や韓国に大きく出遅れています。欧米諸国も、経済制裁解除を受けて多数の企業が進出しています。
 日本の企業は、政府がこれまで築いてきた友好関係をもとに、積極的に進出を図っています。現在、ミャンマーに進出している日本企業は約300社を数え、5年前の6倍にもなっています。出遅れた日本企業ですが、親日国ミャンマーでの今後の活躍が期待されます。
世界が注目するミャンマー民主化の行方 - アウン・サン・スー・チー氏の横顔 -
 1945年、ミャンマー独立の父アウン・サン将軍の長女として誕生。母キン・チさんのインド大使就任に伴って、インドのニューデリーに移住。レディー・シュリラム・カレッジで学んだ後、イギリスのオックスフォード大学に留学。卒業後、1971年まで国連本部に勤める。1972年イギリス人のマイケル・エリアス氏と結婚。1985年、京都大学東南アジア研究センターの客員研究員として来日。ネ・ウィン大統領が1988年に辞任すると、学生などが民主化運動を展開し、スー・チー氏もこれに合流、民主政権の樹立を訴える。この後、国民民主連盟(NLD)を設立し、本格的に政治活動を展開。1989年、クーデターで全権を掌握した新軍事政権によって2010年まで自宅軟禁。1991年10月には、民主主義と人権回復のための活動が評価され、ノーベル平和賞を受賞した。
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