泥沼の内戦が続くシリアと南スーダン【国際】
【平和を模索する国際社会と国連の役割】
内戦7年目を迎えたシリアでは、住む家を失った難民の数は1150万人にも達し、このうち約490万人は国外に脱出しています。また、南スーダンでは2011年7月にスーダンから分離独立以来、国内での武力抗争が絶えず、国民の半数が難民となって深刻な食糧危機に見舞われています。
出口の見えない泥沼の内戦が続くシリアと南スーダンに、国連をはじめとした国際社会はどう対処しようとしているのでしょうか。シリアと南スーダンに平和は訪れるのでしょうか。
【内戦7年目でシリア難民は1350万人を超える】
- 米国がシリア空軍基地に巡航ミサイル攻撃 -
シリアの内戦は2011年3月の反政府デモが発端でした。この年の1月に、チュニジアの「ジャスミン革命」を皮切りに、エジプト、リビア、イエメンなど北アフリカや中東諸国で、独裁政権に対する「アラブの春」と呼ばれる民主化運動が巻き起こりました。
シリアでは、アサド政権に対する民衆の抗議デモが政府軍との武力衝突を招きました。以来7年にわたって内戦が続き、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の統計によると、2017年2月現在で住む家を失ったシリア難民の数は、シリア人口約2300万人の半分に当たる1150万人にのぼります。
このうち、国外に脱出した難民は約490万人、シリア国内にとどまっている難民は約660万人といわれます。
そして今年4月、空爆でサリンなどの化学兵器を使用したシリアのアサド政権への対抗措置として、アメリカのトランプ政権がシリア中部の空軍基地に巡航ミサイル59発を撃ち込んで攻撃し、シリア内戦は新たな局面を迎えました。
- 米国がシリア空軍基地に巡航ミサイル攻撃 -
シリアの内戦は2011年3月の反政府デモが発端でした。この年の1月に、チュニジアの「ジャスミン革命」を皮切りに、エジプト、リビア、イエメンなど北アフリカや中東諸国で、独裁政権に対する「アラブの春」と呼ばれる民主化運動が巻き起こりました。
シリアでは、アサド政権に対する民衆の抗議デモが政府軍との武力衝突を招きました。以来7年にわたって内戦が続き、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の統計によると、2017年2月現在で住む家を失ったシリア難民の数は、シリア人口約2300万人の半分に当たる1150万人にのぼります。
このうち、国外に脱出した難民は約490万人、シリア国内にとどまっている難民は約660万人といわれます。
そして今年4月、空爆でサリンなどの化学兵器を使用したシリアのアサド政権への対抗措置として、アメリカのトランプ政権がシリア中部の空軍基地に巡航ミサイル59発を撃ち込んで攻撃し、シリア内戦は新たな局面を迎えました。
- 歴史的なシリアはオリエント世界の十字路 -
現在の国家としてのシリアは、東地中海の北部から内陸のユーフラテス川流域にいたる地域に位置し、北にトルコ、南にヨルダン、東にイラク、西にレバノンと国境を接しています。
古代の歴史的なシリアは、パレスチナを含む広大な「肥沃な三日月地帯」の一角を占め、メソポタミア文明とエジプト文明の影響を受けたオリエント世界の十字路の役割を果たしていました。
アッシリア、アケメネス朝ペルシャなどに支配され、BC333年にアレクサンドロス大王に征服された後、セレコウス朝シリアを名乗った大シリア帝国の時代がありました。
やがてBC64年からローマ帝国の属州となり、東ローマ帝国、さらにウマイヤ朝、アッバース朝など歴代イスラム王朝の支配を受け、セルジューク朝、モンゴル帝国などの支配を経てオスマン帝国の版図に含まれました。
- 71年から親子2代にわたるアサド独裁体制 -
第1次大戦後オスマン帝国から独立した「大シリア」は、1920年のセーヴル条約でヨルダンとパレスチナが分割されてイギリスの委任統治下に置かれ、シリアはフランスの委任統治領となりました。
その後、フランスはレバノンをシリアから分離し、第2次大戦後の1946年にシリア共和国が独立しました。63年に民族主義党のバース党がクーデターで政権を奪取し、ハーフィズ・アサド将軍が71年から大統領として独裁政治を始めました。2000年に子のバッシャール・アサドが独裁政権を継承して現在に至っています。
- 国内外の勢力が入り込み内戦が泥沼化 -
アサド大統領自身はイスラム教シーア派の中のアラウィン派の宗派に属しています。シーア派はシリア国民の13%にすぎず、アサド政権は国民の74%を占めるスンニ派を強権支配してきました。
当初アサド政権派のシリア軍と反政府勢力の民兵組織(自由シリア軍)との衝突だったシリアの内戦は、徐々に多くの勢力が国内外から参加しました。
アルカイダ系のアル=ヌスラ戦線や過激派のIS(イスラム国)、クルド人武装勢力(人民防衛隊)など複数の反政府勢力がアサド政権だけでなく、相互に争って収拾が付かない状況になっています。
とくにアサド政権を支援するロシア、イランと反アサド政権の米国、トルコ、サウジアラビアなどがそれぞれの思惑に沿って軍事支援を行っており、調停役が不在のままシリアの内戦は出口の見えない泥沼が続いています。
- 32万人超が死亡、1350万人が人道支援必要 -
内戦情報を収集するイギリスの民間組織「シリア人権観測所」や国連の調査によると、シリア内戦でこれまでに32万人以上が死亡し、シリア国内で人道支援が必要な人は1350万人にのぼると推計しています。
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は2016年に、食糧や医薬品、寝具、調理器具など基本的な生活物資支援を400万人以上に配布し、シリア各地のUNHCRのコミュニティセンターでは子供たちの保護や教育、医療サポートを200万人以上に提供しています。
【食糧飢饉と人道危機が深刻化する南スーダン】
- スーダンから独立間もなく内戦が始まる -
今年5月末に国連平和維持活動(PKO)で南スーダンに派遣されていた陸上自衛隊の施設部隊約350人が撤収しました。政府は撤収の理由を「担当地の首都ジュバの施設整備任務に一定の区切りが付いたため」としていますが、南スーダンを巡る情勢の変化が大きな理由とみられています。
アフリカ大陸の東の中央部に位置する南スーダンは、もともとスーダンという国から南部が独立して生まれました。スーダンではイスラム教徒が多い北部地域が、キリスト教徒や伝統宗教が強い南部地域を支配してきました。1955年から南北両地域で繰り返し武力抗争が行われ、2011年7月にアメリカなどの後押しで南部地域が独立して南スーダンが誕生しました。
しかし独立から2年後に、政権内の民族対立から南スーダンで内戦が始まりました。南スーダンにはディンカ族とヌエル族の二大民族がありますが、独立戦争当時から対立関係にありました。
現在の国家としてのシリアは、東地中海の北部から内陸のユーフラテス川流域にいたる地域に位置し、北にトルコ、南にヨルダン、東にイラク、西にレバノンと国境を接しています。
古代の歴史的なシリアは、パレスチナを含む広大な「肥沃な三日月地帯」の一角を占め、メソポタミア文明とエジプト文明の影響を受けたオリエント世界の十字路の役割を果たしていました。
アッシリア、アケメネス朝ペルシャなどに支配され、BC333年にアレクサンドロス大王に征服された後、セレコウス朝シリアを名乗った大シリア帝国の時代がありました。
やがてBC64年からローマ帝国の属州となり、東ローマ帝国、さらにウマイヤ朝、アッバース朝など歴代イスラム王朝の支配を受け、セルジューク朝、モンゴル帝国などの支配を経てオスマン帝国の版図に含まれました。
- 71年から親子2代にわたるアサド独裁体制 -
第1次大戦後オスマン帝国から独立した「大シリア」は、1920年のセーヴル条約でヨルダンとパレスチナが分割されてイギリスの委任統治下に置かれ、シリアはフランスの委任統治領となりました。
その後、フランスはレバノンをシリアから分離し、第2次大戦後の1946年にシリア共和国が独立しました。63年に民族主義党のバース党がクーデターで政権を奪取し、ハーフィズ・アサド将軍が71年から大統領として独裁政治を始めました。2000年に子のバッシャール・アサドが独裁政権を継承して現在に至っています。
- 国内外の勢力が入り込み内戦が泥沼化 -
アサド大統領自身はイスラム教シーア派の中のアラウィン派の宗派に属しています。シーア派はシリア国民の13%にすぎず、アサド政権は国民の74%を占めるスンニ派を強権支配してきました。
当初アサド政権派のシリア軍と反政府勢力の民兵組織(自由シリア軍)との衝突だったシリアの内戦は、徐々に多くの勢力が国内外から参加しました。
アルカイダ系のアル=ヌスラ戦線や過激派のIS(イスラム国)、クルド人武装勢力(人民防衛隊)など複数の反政府勢力がアサド政権だけでなく、相互に争って収拾が付かない状況になっています。
とくにアサド政権を支援するロシア、イランと反アサド政権の米国、トルコ、サウジアラビアなどがそれぞれの思惑に沿って軍事支援を行っており、調停役が不在のままシリアの内戦は出口の見えない泥沼が続いています。
- 32万人超が死亡、1350万人が人道支援必要 -
内戦情報を収集するイギリスの民間組織「シリア人権観測所」や国連の調査によると、シリア内戦でこれまでに32万人以上が死亡し、シリア国内で人道支援が必要な人は1350万人にのぼると推計しています。
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は2016年に、食糧や医薬品、寝具、調理器具など基本的な生活物資支援を400万人以上に配布し、シリア各地のUNHCRのコミュニティセンターでは子供たちの保護や教育、医療サポートを200万人以上に提供しています。
【食糧飢饉と人道危機が深刻化する南スーダン】
- スーダンから独立間もなく内戦が始まる -
今年5月末に国連平和維持活動(PKO)で南スーダンに派遣されていた陸上自衛隊の施設部隊約350人が撤収しました。政府は撤収の理由を「担当地の首都ジュバの施設整備任務に一定の区切りが付いたため」としていますが、南スーダンを巡る情勢の変化が大きな理由とみられています。
アフリカ大陸の東の中央部に位置する南スーダンは、もともとスーダンという国から南部が独立して生まれました。スーダンではイスラム教徒が多い北部地域が、キリスト教徒や伝統宗教が強い南部地域を支配してきました。1955年から南北両地域で繰り返し武力抗争が行われ、2011年7月にアメリカなどの後押しで南部地域が独立して南スーダンが誕生しました。
しかし独立から2年後に、政権内の民族対立から南スーダンで内戦が始まりました。南スーダンにはディンカ族とヌエル族の二大民族がありますが、独立戦争当時から対立関係にありました。
- ディンカ族とヌエル族の民族抗争が主因 -
南スーダンの独立後、国内で最も大きい民族であるディンカ族のサルバ・キール・マヤルディが大統領に、その次に大きい民族であるヌエル族のリエック・マシャール・テニィが副大統領に就任しました。
しかしディンカ族とヌエル族の対立は深まり、2013年7月にキール大統領がマシャール副大統領を解任し、マシャール派の軍が反乱を起こして政府軍との内戦が始まりました。
15年8月に停戦合意が成立し、16年2月に国民統一暫定政府が発足してマシャール氏が再び副大統領として南スーダン政府に復帰します。しかしその後両派は決裂し、再び内戦が始まって現在に至っています。
南スーダンの独立後、国内で最も大きい民族であるディンカ族のサルバ・キール・マヤルディが大統領に、その次に大きい民族であるヌエル族のリエック・マシャール・テニィが副大統領に就任しました。
しかしディンカ族とヌエル族の対立は深まり、2013年7月にキール大統領がマシャール副大統領を解任し、マシャール派の軍が反乱を起こして政府軍との内戦が始まりました。
15年8月に停戦合意が成立し、16年2月に国民統一暫定政府が発足してマシャール氏が再び副大統領として南スーダン政府に復帰します。しかしその後両派は決裂し、再び内戦が始まって現在に至っています。
- 10万人が飢餓に直面し490万人が食糧不足 -
16年3月に国連人権理事会は、南スーダン政府が反政府軍と戦う民兵に住民の虐殺やレイプを認めていると報告し、「今世界で最も恐ろしい人権状況にある」と訴えました。
長引く戦争と経済崩壊で南スーダンでは食糧危機が発生し、国連によると国民の半数近い490万人が食糧不足の状態にあります。このうち10万人が飢餓状態にあり、100万人が飢饉寸前にあるとしています。
また、人口約1200万人のうち国内避難民が340万人を数え、国外に100万人が難民として流出しているといわれます。
- 豊かな石油資源がアダとなって抗争が激化 -
南スーダンはアフリカ有数の石油資源国です。英国の国際石油会社BP(ブリティッシュ・ペトロリアム)の統計によると、2015年の南スーダンの原油確認埋蔵量は約35億バレルで、アフリカ大陸第5位です。
独立直後の12年に150万トンだった原油生産量は15年までに730万トンに急増し、未開発の油田も多く将来の経済発展が見込まれていました。
しかし豊かな資源がかえってアダとなって、近代産業の遅れや放漫財政、過剰な資金流入によるインフレを招いて国民生活を圧迫しました。さらに汚職の蔓延や独裁体制と石油資源の利権をめぐる武力抗争が、民族間の争いと相乗して激化していったと考えられます。
16年3月に国連人権理事会は、南スーダン政府が反政府軍と戦う民兵に住民の虐殺やレイプを認めていると報告し、「今世界で最も恐ろしい人権状況にある」と訴えました。
長引く戦争と経済崩壊で南スーダンでは食糧危機が発生し、国連によると国民の半数近い490万人が食糧不足の状態にあります。このうち10万人が飢餓状態にあり、100万人が飢饉寸前にあるとしています。
また、人口約1200万人のうち国内避難民が340万人を数え、国外に100万人が難民として流出しているといわれます。
- 豊かな石油資源がアダとなって抗争が激化 -
南スーダンはアフリカ有数の石油資源国です。英国の国際石油会社BP(ブリティッシュ・ペトロリアム)の統計によると、2015年の南スーダンの原油確認埋蔵量は約35億バレルで、アフリカ大陸第5位です。
独立直後の12年に150万トンだった原油生産量は15年までに730万トンに急増し、未開発の油田も多く将来の経済発展が見込まれていました。
しかし豊かな資源がかえってアダとなって、近代産業の遅れや放漫財政、過剰な資金流入によるインフレを招いて国民生活を圧迫しました。さらに汚職の蔓延や独裁体制と石油資源の利権をめぐる武力抗争が、民族間の争いと相乗して激化していったと考えられます。