「ベルリンの壁」が崩壊して30年【国際】

「ベルリンの壁」が崩壊して30年


 昨年11月9日、東西冷戦の象徴だった「ベルリンの壁」が崩壊して30年が経過しました。若い人たちにとって、ベルリンの壁はすでに歴史上の出来事になっているかも知れません。しかし、ベルリンの壁がなぜ作られ、どのように崩壊したのかを考えることは、現在の世界情勢を知る上で非常に大切です。30年という節目に、もう一度ベルリンの壁について考えてみました。

「ベルリンの壁」が崩壊して30年 - 第二次世界大戦でドイツは敗北 -
 第二次世界大戦は、1939年9月のドイツ軍のポーランド侵攻で始まり、41年12月の太平洋戦争の勃発で世界戦へと拡大し、戦いは45年8月の日本の降伏まで続きました。この間、ドイツ、イタリア、日本などの枢軸国と、イギリス、フランス、中国に加え、途中から参戦したソ連(現ロシア)やアメリカなどの連合国が、8年間にわたって戦闘を繰り広げました。戦いは主としてヨーロッパやアジア・太平洋地域で行われ、約5000万人もの死者を出す未曽有の大戦となりました。
 ドイツ軍はポーランド侵攻後、40年6月にはパリに到達してフランスを降伏させ、続いてイギリスのロンドンなどを空襲しました。しかし、アメリカの支援を受けたイギリスは持ち堪え、42年に入ると連合国のドイツへの反撃が始まりました。ドイツはソ連との戦いにも敗れ、東部戦線から後退していきました。44年になると連合国軍はノルマンディー上陸作戦を決行してパリを奪還するなど、ドイツの敗色は濃厚となっていきました。
「ベルリンの壁」が崩壊して30年 - ドイツは米英仏ソの共同管理下に -
 45年4月、ドイツの首都ベルリンはソ連軍に包囲され、地下壕にこもっていたヒトラーが自殺し、5月に連合国に無条件降伏してヨーロッパでの戦いは終わりました。
 ドイツ降伏の前の45年2月、クリミア半島のヤルタでアメリカのF・ルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン首相の三首脳によるヤルタ会議が行われました。そこで、戦後のドイツを、フランスを加えた4か国で分割管理する基本方針が決定しました。この方針に基づき、戦後ドイツの国土は二分され米英仏が西ドイツを、東ドイツはソ連によって分割占領され、ソ連占領地域内にある首都ベルリンも4か国の共同管理下に置かれました。しかし、ドイツは資本主義市場経済をめざす西ドイツと、ソ連の社会主義計画経済を採用する東ドイツという異なる制度に分かれ、抜き指しならない対立状態になっていきました。こうした中、1947年にアメリカはマーシャル・プラン(ヨーロッパ経済復興援助計画)を発表し、ソ連に対する封じ込め政策を明確にしました。これに対してソ連は激しく反発し、48年にベルリンから米英仏の占領地域(トライアルゾーン)に通じる道路や鉄道を完全に封鎖し、西ベルリンはソ連領内に浮かぶ陸の孤島となってしまいました。アメリカはこれに対して頻繁に飛行機を飛ばし、食料品を始め生活関連物資を空輸しました。
「ベルリンの壁」が崩壊して30年 - 1949年、東西両ドイツが成立 -
 ベルリン空輸は49年5月まで続き、ついにソ連は封鎖を解きました。一連の対立で顕著になったのは、東西冷戦構造が固定化したことです。固定化したことで、5月に西側に資本主義陣営の一角を担うドイツ連邦共和国(西ドイツ)が成立しました。西ドイツをはじめとした西側諸国はマーシャル・プランを受入れ、戦争で疲弊した経済基盤を立て直し、奇跡的な復興を遂げていきました。
 ソ連は49年1月に、東欧5か国(ポーランド、ブルガリア、ハンガリー、チェコスロバキア、ルーマニア)と経済相互援助会議(コメコン)を創設して対抗します。そして10月には、社会主義陣営に所属するドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立し、ドイツの東西に個別の国家権力を有する分断国家が誕生しました。
 東西ドイツは異なる政治・経済システム、イデオロギーを導入し、背後にはアメリカとソ連が控えるという東西対立の最前線に立たされることになりました。その最たるものが東西に分割されたベルリンです。

- 拡大していった東西の格差 -
 1953年3月にスターリンが死去して以降、東西間で平和共存路線が模索されました。61年には、ウィーンでケネディ大統領とフルシチョフ第1書記との直接協議が行われましたが、両首脳とも妥協を拒んだため協議は決裂しました。
 この間、東西両ドイツの経済格差は目に見えて拡大していきました。統一を望む東ドイツ市民の間に失望感が広がり、豊かさや自由を求めて西ベルリンに脱出する人が急増していきました。西ドイツへの亡命は、49年の建国以来ずっと続いており、全体では200万人を大きく上回っています。西ベルリンに脱出した後は、西ドイツ各地に送られました。東ドイツ政府は、国民が国を去るようでは社会主義国家を作れないと考え、強制的に東ベルリンに留まるように壁を作ったのです。

- こうしてベルリンの壁が作られた -
 当時の西ベルリンの広さは481㎢(東京区部より少し狭い程度)で、ここに約213万人が暮らしていました。
 61年8月13日、東ドイツは東ベルリン市民の外出を禁止し、東西ベルリンの境界線に155㎞にわたって鉄条網とバリケードを築き、14日にはベルリンの象徴的なブランデンブルグ門も閉鎖し、東西の交通は完全に遮断しました。これ以降、壁は次々とコンクリートで固められ、高さは3mにも達して乗り越えることは不可能でした。周囲は国境警備隊が厳重な警備を敷き、東ベルリン市民は近づくことも許されません。
 それでも命がけで脱出を試みる人がいて、数千人の人が脱出に成功したといわれています。しかし、脱出途中で警備兵に射殺されるなど、少なくとも136人が尊い命を落としています。

- 東欧で民主化を求める国民の声 -
 ベルリンの壁は東西冷戦の象徴であり、なくなる日は永遠に来ないのでないかと思われた時期もありました。
 しかし、69年に西ドイツの首相に就任したブラントは、ソ連や西ドイツとの協調路線を模索し、72年に東西ドイツ基本条約が締結されました。以降、東西ドイツは相互に独立国として承認し合うことになり、翌73年には同時に国連に加盟しました。
 80年代に入ると、東ドイツの経済破綻が進み、ソ連でも経済の立て直しや政治改革を求める動きが高まりました。85年に「ペレストロイカ」という政治改革を掲げたゴルバチョフが大統領に就任し、外交でも新思考外交を展開して東西の緊張緩和に取り組み始めました。
 89年には東欧諸国で、「東欧革命」と呼ばれる社会主義政権打倒をめざす大規模な民主化運動が繰り広げられました。ポーランドでは、民主化運動を指導した自主管理労組「連帯」が6月に行われた自由選挙で勝利し、東側陣営で初めて非共産党内閣が誕生しました。ハンガリーでも民主化が進められ、89年5月にオーストリアとの国境を開放し、ヨーロッパを東西に分断していた「鉄のカーテン」が事実上消滅しました。このため、東ドイツの多くの市民はハンガリーを経由してオーストリアから西ドイツへ向かいました。
 チェコスロバキアでも、民主化を求める大規模なデモが連日発生し、共産党政権を倒す「ビロード革命」が起き、ルーマニアでは独裁体制を敷いていたチャウチェスク大統領が革命政府によって処刑されました。
「ベルリンの壁」が崩壊して30年 - ベルリンの壁が崩壊した日 -
 東ドイツ国内でも各地で大規模なデモが発生し、11月6日のライプチヒでのデモには50万人が参加したといわれています。
 東ドイツ政府は大規模なデモを受け、ホネカー第1書記が辞任に追い込まれました。対応を迫られた新指導部は、出国の規制を緩和する法案を決議しました。その後の記者会見で、記者から「いつから発効するのか」と問われた報道官が、「ただちに」と答えたことで予定を1日早めて1989年11月9日に開放することが決まったという逸話が残されています。こうして東西ドイツの国境は開かれ、61年8月に構築されたベルリンの壁は28年振りに開放されたのです。ベルリンの壁崩壊は、東欧諸国で連続的に発生した「東欧革命」の最後を飾る大事件となりました。12月には、アメリカのブッシュ大統領とゴルバチョフ大統領が地中海のマルタ島で会談し、世界を二分してきた東西冷戦の終結を宣言しました。
 そして翌1990年10月、東西ドイツの再統一が実現しました。東西対立の象徴だったベルリンの壁は、一部が記念碑や壁博物館などとして残されているものの、そのほとんどは撤去されています。

- 今も続く旧東西ドイツの格差 -
 東西ドイツの30年振りの再統合で、社会主義独裁体制下にあった旧東ドイツ国民に、言論や移動の自由、生活水準の向上がもたらされました。
 しかし、30年が経過した現在でも乗り越えなくてはならない壁が存在しています。最大の壁は、旧東西ドイツの経済格差です。旧東ドイツが社会主義の時代には、反体制者などを除いてすべての市民の雇用が守られていました。しかし、統合によって旧国営工場の多くが倒産したり、西側企業にタダ同然で買い取られました。このため失業者が町にあふれ、職を求めて120万人以上の東側の労働者が西側に移っていきました。
 2005年の旧東ドイツ地区の失業率は18・7%にも達し、西地区より10ポイント以上も高い数字となっています。現在、縮小傾向にはありますが、依然として旧東西ドイツ間に失業率や賃金など多くの面で格差がみられます。
「ベルリンの壁」が崩壊して30年 - 壁の崩壊後、「心の壁」が出現 -
 ベルリンの壁崩壊から30年が経過した19年11月9日、ドイツ国内でさまざまな祝いの催しが開催されました。
 ドイツのメルケル首相も参加しましたが、政府の閣僚の中で旧東ドイツ出身者はメルケル首相とギッファイ家族相の二人で、他は旧西ドイツ出身者が占めています。主要81大学の学長の中に東部出身者は一人もいません。また、ドイツの主要500社のうち、東部に本社を置いているのは7%に過ぎません。政治でも企業でも、指導的な立場の人は旧西ドイツ出身者が大半を占めています。
 東部のザクセン州政府が2017年に行った調査で、58%の人が「統一後に新たな不公平が起きた」と答え、61%の人が「東部の人々の復旧への努力が評価されていない」と不満を述べています。翌年の調査では、49%の人が「ドイツは不公平な社会だ」と答え、「公平な社会だ(46%)」との回答を上回っています。
 さらに、2019年9月のドイツ政府の調査では、旧東ドイツ出身者のうち、「東西統一に成功した」と答えた人は38%にとどまり、57%の人が「2級市民として扱われている」と答えています。ベルリンの壁が崩壊して30年が経過しましたが、新たに出現した「心の壁」がドイツ国民の間に大きな問題を投げかけています。
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