2010年は、平城遷都1300年【歴史】

2010年は、平城遷都1300年


~ 平城遷都1300年を目前に控えて ~
 来年は、奈良に平城京が誕生して1300年を迎えます。784年に京都の長岡京に移るまでの約70年間を奈良時代といいます。当時、世界の超大国・唐との平和外交に心血を注ぎ、内には天皇を中心とした中央集権的官僚制国家である「律令国家」の完成を見た奈良時代。また、古事記、日本書紀、風土記、万葉集といった天平文化が花開いた古代日本の黄金時代でもありました。

2010年は、平城遷都1300年  唐に多くを学んだ奈良時代は、やがて唐と決別して国を閉ざし、京に都を移し、優雅な貴族文化が花咲く平安時代へと移っていきます。古代史に燦然と輝く奈良時代とはどんな時代だったのでしょう。
平城遷都1300年を目前に、日本の古代史に想いを巡らせながら奈良時代を検証してみましょう。
2010年は、平城遷都1300年 【現代とクロスする奈良時代、どんな時代だったの?】
- 平城京は人口10万人の大規模政治都市 - 
▼唐の長安をモデルに、律令国家の威信を誇示

 奈良の都・平城京は、710年に奈良県橿原市にあった藤原京から遷都されました。7世紀頃までの古代日本は、天皇が変わるたびに都が移っていました。しかし、飛鳥時代の701年に制定された大宝律令で、国のかたち=律令制度が整って大陸との交流が盛んになると、当時世界の超大国であった唐をまねて大規模な都を建設し、律令国家の威信を内外に示そうという意識が高まってきました。こうして建設されたのが初の大規模な国都「平城京」です。
 平城京とはどんな都市だったのでしょう。平城京は長安(現在の西安)を手本にして作られました。都の大きさは東西約4.3キロメートル、南北約4.8キロメートル。東西・南北に規則正しく碁盤の目のように区切られていました。 当時、日本の人口は450万人程度と推定され、平城京には約10万人が住んでいたようです。このうち約7000人が役人で、貴族は約100人。中級役人約600人だったといいます。
 奈良時代を詳しく見る前に、奈良時代に至るまでの7世紀から8世紀にかけての国内外の主な動きを追ってみましょう。

- 大化の改新で天皇中心の政権確立へ - 
▼東アジア情勢が、国の中央集権化を促す

 618年、中国大陸に強大な覇権国家の唐が誕生し、東アジアは一気に緊張が高まりました。朝鮮半島の百済、高句麗、新羅の三国は、いずれも独裁政権が権力を集中させていました。
 日本では、蘇我入鹿が聖徳太子の子である山背大兄王を殺害(643年)して権力の集中を狙います。645年に中大兄皇子、中臣鎌足らが蘇我入鹿を暗殺するというクーデター(大化の改新)を決行、蘇我一族を包囲して滅ぼします。
 これによって、中大兄皇子をリーダーとした天皇中心の新たな国家体制がスタートしました。このとき、都は飛鳥(飛鳥板蓋宮)から、大阪の入江に面した難波(難波長柄豊崎宮)に移ります。激動の東アジア情勢に対応して、大陸と海路で直結する難波に遷都することでいち早く国際情勢、とりわけ唐の動きを察知しようと情報や文物の収集を図るのが狙いと見られます。
 一方大陸では、朝鮮半島の百済が唐と新羅の連合軍に攻められ、日本に援軍を求めてきました。中大兄皇子は朝鮮半島に派兵しますが、663年に白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗し、日本は朝鮮半島での影響力を失います。その後、百済・高句麗は唐・新羅連合軍に滅ぼされ、朝鮮半島は唐の庇護下にある新羅が統一します。
2010年は、平城遷都1300年 【律令国家の栄華と天平文化が花開く】
- 叔父(大海人皇子)と甥(大友皇子)の跡目争い - 
▼大宝律令の制定で政治支配体制が整う

 668年、中大兄皇子は即位して天智天皇となり、内政に専念して軟弱だった律令国家体制の建設に邁進します。その後、後継問題を巡って天智天皇の子である大友皇子と天智天皇の弟の大海人皇子が対立し、叔父と甥の間で骨肉の戦いが始まります。672年の「壬申の乱」がそれです。
 壬申の乱に勝利した大海人皇子は、近江大津宮から飛鳥浄御原宮に遷都し、翌673年に即位して天武天皇となりました。律令体制を強固なものにするため、天皇家、皇族が政府の要職を占める「皇親政治」を推進しました。しかし、志半ばで死去し、皇后が後を次いで持統天皇が即位します。
 わが国初の法典である大宝律令が701年に制定され、中央政府としての政治支配機構が確立されました。「二官八省一台五衛府」の中央官制がそれで、神祇官、太政官二官。民部省、式部省、兵部省などの八省。そして弾正台と衛門府、左・右衛士府、左右兵衛府の五衛府からなっています。
 律令国家の完成をみた奈良時代は、新しい国際交流が活発に展開された時代でもあります。国際情勢は、唐が繁栄を極め、朝鮮半島は新羅によって統一され、東アジア情勢は緊張から安定期を迎えました。
 630年から始まった遣唐使は、奈良時代にはほぼ20年に一度の頻度で実施されました。遣唐使には大使をはじめ、留学生や学問僧も加わり、多い時で約500人が4隻の船に分乗して唐に渡りました。

- 天皇中心の中央政権が列島のほぼ全域を支配 -  
▼国際色豊かで、壮大・華麗な天平文化が花開く

 律令体制が完成を見た奈良時代は、天皇を中心とした古代日本の中央政権が、北海道を除いて国本列島のほぼ全域に領国支配を完成させた時代です。また、唐との交流が活発となり、唐の影響を強く受けた仏教色の濃い天平文化が栄えました。奈良の都平城京は、イタリアのベネチアを起点にしたシルクロードの終着点にもあたり、ここで開花した天平文化は、インドやペルシャ、アラビアなどの文化も取り入れた国際性に富んだ壮大で華麗なものでした。
 建物では、三角形の木材を組み合わせた校倉造が特徴で、東大寺正倉院や法華堂(三月堂)、唐の鑑真が開いた唐招提寺の金堂などが有名です。美術では、唐招提寺の鑑真和上像や東大寺の日光・月光菩薩像、四天王像などの彫刻や、正倉院の「鳥毛立女屏風」や薬師寺の「吉祥天画像」などの絵画がよく知られています。
 文学に目を転じると、貴族の教養書である最古の漢詩集「懐風藻」が作られました。太安万侶の「古事記」や、舎人親王らの「日本書紀」も編纂され、国ごとの産物や伝説などを収録した「風土記」という地誌も作られました。とくに、今でも愛唱されているわが国最古の和歌集「万葉集」が作成され、天皇や貴族のほか、農民や防人(兵士)の歌など約4500首が収録されています。
2010年は、平城遷都1300年 - 強大化する支配と重税で、逃亡する農民 - 
▼開墾地の私有を容認「墾田永年私財法」

 いつの時代も政権を支えるのは財源となる税です。税収によって都を維持し、領国を守り、軍隊を養い、権力基盤を維持しています。律令制の大きな特徴は私有地、私有民を廃止した公地公民でした。6歳以上のすべての国民に、口分田と呼ばれる土地が支給され、租・庸・調といった税を納めさせていました。これを「班田収授の法」といいます。
 ところが、中央政権の支配地域が拡大し、農民支配が強化されるにつれて税は重くなり、耐え切れなくなった農民が口分田を放棄して故郷を飛び出し、流浪の民になっていきました。また、防人として辺境の守備に就いていた農民や、中央の労役に駆り出されていた農民の逃亡も相次ぎました。
 このため、時の権力者は税収確保を図るため、条件付で土地の所有を認める三世一身法や墾田永年私財法などを制定し、土地は国のものという公地主義を放棄する政策を採らざるを得なくなりました。
 やがて有力貴族や大寺院、地方豪族などが大規模な墾田開発事業を展開していきます。寺院などは、逃亡してきた農民たちを労働力として抱え込むなど「私有民化」していきました。これが平安時代の貴族政治の基盤となる荘園(私有地)となっていきます。律令国家の財政基盤は、こうして足元から崩れていったのです。

- 明け暮れる権力闘争(長屋王の変、恵美押勝の乱、橘奈良麻呂一掃) - 
▼天皇を窺い失脚する道鏡、終焉迎える奈良時代

 律令制が行き詰まりを見せる中で、中央政界も動揺します。平城遷都が行なわれた奈良時代の初期は藤原不比等が権力の担い手でした。不比等が死去した後の権力を、天武天皇の孫である長屋王が握り、律令制の徹底を図っていきました。
 一方、政権の皇族支配に対抗して反旗を翻したのが、藤原不比等の子である無智麻呂、房前、宇合、麻呂の四兄弟でした。藤原四兄弟は「長屋王が国家転覆を画策している」と吹聴して長屋王を自殺に追い込みます。729年の長屋王の変です。
 翌年、不比等の娘である光明子が聖武天皇の皇后になり、初めて藤原氏の外戚による権力支配が確立しました。ところが、737年に当時流行した天然痘のため、藤原四兄弟はあえなく全員が死亡します。
 その後、皇族出身の橘諸兄、吉備真備が政権を担当。次いで権力を掌握した藤原仲麻呂が、対抗勢力だった橘奈良麻呂(橘諸兄の子)を死亡させて反対派を一掃。藤原仲麻呂の独裁政権が確立されました。仲麻呂は後に恵美押勝と名乗ります。
 やがて、孝謙皇太后の祈祷僧として信頼を得ていた道鏡が権力を握ります。このため、藤原仲麻呂(恵美押勝)は、道鏡の排除を目的に恵美押勝の乱(764年)を起こしますが、琵琶湖湖畔で敗死してしまいます。翌年、道鏡は法王に就任し、天皇の地位を伺いますが、後ろ盾の称徳天皇が死去したため、北関東の下野薬師寺の別当(長官)に左遷されます。
 やがて、桓武天皇の手によって都は平城京から京都の長岡京に遷都されます。
2010年は、平城遷都1300年 - 水不足、物資輸送がネックになった平城京 - 
▼やがて千年の都・平安京を造営へ

 奈良時代に完成を見た律令国家は、官僚組織を維持するために、安定した税収を必要としました。しかし、税収の基本となる公地公民をうたった「班田収授の法」には、新たに開墾した土地(開墾田)について明確な規定がありません。これが、後の荘園制につながる土地私有化を認めることになり、公地公民を柱とした律令制国家の崩壊に導くことになったのです。
 桓武天皇が平城京から長岡京遷都を決意した大きな理由は、水源の確保だったといわれます。地政学的に平城京(今の奈良市街地)は、近くに大きな河川がなく、入江(港)に遠く、海路、水路による食料などの大量輸送には適していません。
 さらに、10万人が暮らしていた平城京は常に水不足に悩んでいたようで、水不足は必然的に衛生環境の悪化を招き、疫病などの発生の温床となります。このため、都は長岡京から平安京に移り、千年の都として栄えることになります。

- 唐との平和外交に心血を注いだ奈良時代 - 
▼奈良時代を参考に、世界の平和と文化・学術交流を
 
 第二次大戦の敗戦で海外植民地を失った戦後日本の姿は、白村江の戦いに敗退して朝鮮半島での影響力を失った古代日本と重なって見えます。奈良時代は、超大国唐との平和外交と、唐からの文物の導入に国力を傾注した時代でした。
 戦後の日本は、超大国アメリカへの政治的、経済的依存によって復興・成長を遂げてきました。そして現在、政権は自民党から民主党に移行し、自主性、独自性を重んじた政治・経済の仕組みづくりや、対米一辺倒から多極化外交、国連中心へと大きく舵を切り替えつつあります。
 律令制に基づく国づくりが完成した奈良時代は、当時世界の超大国である唐と、唐と同盟して朝鮮半島を統一した強大な新羅に対して、ようやく完成した律令国家日本をいかに守り、東アジア情勢の中で安定を確保していくかに心血を注いだ時代でもありました。
 平成時代の私たちは、平城遷都1300年を機に、奈良時代の歴史を振り返りながら、21世紀の世界の平和と文化・学術の交流、創出に貢献する日本の役割を考えていきたいと思います。
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