坂本龍馬は何をめざしたか?【歴史】

坂本龍馬は何をめざしたか?

NHKの大河ドラマ「龍馬伝」の影響もあって、今大変な龍馬ブームです。33歳の若さで非業の死を遂げた風雲児、坂本龍馬は何を考え、何を求めて幕末を駆け抜けたのでしょうか。尊皇攘夷から倒幕開国へ、龍馬を熱く駆り立てた時代風土と思想を追ってみましょう。

坂本龍馬は何をめざしたか? 【すべてはペリーの黒船来航から始まった】
- 水戸の国学の影響を受け尊皇攘夷が巻き起こる - 

 坂本龍馬といえば土佐の脱藩浪人ながら、新しい国家ビジョンを描き、薩摩と長州の同盟を実現して倒幕の道筋を付けた幕末の風雲児として、多くの歴史ファンの人気を集めています。
 諸説は色々ありますが、一般に幕末動乱とは、1853年6月にペリー提督に率いられた四隻の〝黒船〟が浦賀に来航してから、戊辰(ぼしん)戦争が終わって明治に改元された1868年9月までをいいます。
 ペリー来航の翌年の3月に日米和親条約を結び、下田と函館の二港が開港されます。さらに1858年には日米修好通商条約を締結しますが、天皇の勅許を得ないで国禁(鎖国)を犯したとして、幕府に不満を持つ下級武士層を中心に幕府批判の火の手が上がります。
 やがて徳川光圀が著した勤王一途の「大日本史」を源流とする水戸学の影響を受けた水戸藩士を中心に、京の帝(みかど)を奉り、外国を追い払う「尊王攘夷」の運動が全国に燃え広がっていったのでした。

【内憂外患に悩む井伊大老による弾圧の嵐、安政の大獄】
- 公武合体で幕府建て直しを画策、皇女和宮を将軍家茂夫人に - 

 このとき幕府は14代将軍を巡る継承問題が持ち上がっています。前水戸藩主の徳川斉昭の七男、一橋慶喜を推して諸藩との協調路線を説く一橋派と、紀州藩主の徳川慶福(後の家茂)を推して幕府の権力を強化する保守路線の南紀派に分かれて激しく対立しました。
 南紀派だった大老の井伊直弼は、幕府の方針に批判的な一橋派と尊皇攘夷の志士に対して激しい弾圧を加えます。世にいう「安政の大獄」がそれです。
 この安政の大獄によって、吉田松陰、橋本佐内、梅田雲浜、頼三樹三郎といった多くの勤王志士運動のリーダーが刑死しました。
 当時、尊皇攘夷運動の中心だった水戸藩の志士たちは、幕府の弾圧に抗して井伊大老を桜田門外で暗殺。幕府の強権的な政治姿勢は崩れていきます。
後を受けた老中・安藤信正は、何とか幕府の権威を保持しようと、朝廷との融和による「公武合体」を画策します。光明天皇の妹である和宮を将軍家茂の夫人として江戸に迎えるという、小説や映画にもなった有名な皇女和宮の降嫁です。
 これに対して水戸浪士が反発し、老中の安藤信正を襲撃し、失脚に追い込みます。
坂本龍馬は何をめざしたか? 【尊王攘夷からどうして尊王討幕へ変わったのか】
- 開国の必要に目覚めた薩長は討幕で権力奪取を図る - 

 黒船来航から水戸藩を中心とした尊王攘夷運動、安政の大獄、井伊大老の暗殺と皇女和宮の降嫁あたりまでを幕末動乱前期と見ることができます。
 そして、攘夷に失敗して幕府に見切りを付けた長州、薩摩を中心とする討幕、新国家への胎動を幕末動乱後期といえるでしょう。そしていよいよ坂本龍馬が表舞台に登場です。
 尊王攘夷運動がどうして尊王討幕の戦いに移行していったのでしょう。ひとつには攘夷に熱心だった長州、薩摩が実際に外国船を打ち払う攘夷(下関海峡砲撃、薩英戦争)を決行したものの、逆に欧米列強の艦隊にこっぴどく叩かれて、幕府に見切りをつけて開国の必要性に目覚めたからだといわれます。
 やがて薩長の二藩は、尊皇攘夷に加担しながら不遇の下級公家を抱きこみつつ、巧みに帝(みかど)を掌中に収めて攘夷運動を討幕戦に転換させていきます。
 最終的には幕府を倒し、徳川家を滅ぼして天皇を中心とした新国家を設立し、薩長による政治権力の完全掌握で、欧米列強の脅威に備えようとしたのでした。
 明治の御一新で陸海軍と警察を薩長が独占支配し、帝国議会開設までの一時期の露骨な薩長藩閥政治を振り返れば明らかです。
坂本龍馬は何をめざしたか? 【海舟との出会いで開明思想に目覚めた龍馬。海運貿易を営む】
- 新国家ビジョン「船中八策」が大政奉還を実現する - 

 それでは坂本龍馬は何を考え、どういったスタンスで幕末動乱に臨んだのでしょうか。  
 土佐藩の郷士の家に生まれた龍馬は、過激な土佐勤王党に入党して尊王攘夷運動に身を投じます。やがて脱藩し、大阪、京を経て江戸に出た龍馬は勝海舟と運命的な出会いをしました。単純な攘夷論を潔く捨て、勝海舟の勧めで航海術を修得します。
 こののち、幕府と有力藩との協調体制を唱える開明改革派の福井藩主松平春嶽。春嶽の片腕で思想家の横井小楠。幕臣で公武合体や朝廷へ政権返上を訴えてきた大久保一翁。そして西郷隆盛などとの幅広い親交を深めます。
 貿易商社の亀山社中や、海運業の海援隊などの活動を通じて開明的な思想を進化させた龍馬は、幕府瓦解後の新しい国家ビジョンを「船中八策」に著します。
 要約すれば、政権を朝廷に返し、朝廷による中央政府を作る。憲法を制定して上下両院の議会を設置する。広く人材を登用し、外国と正常(平和的)な国交を樹立し、海軍を拡張する。貨幣制度や物価制度の樹立などです。
 改めて龍馬の先見性、構想力に驚かされます。
 龍馬の船中八策をベースにして土佐藩主の山内豊信が大政奉還を幕府に提案します。1867年10月14日に、最後の将軍、徳川慶喜が京の二条城で大政奉還を宣言。260年以上にわたる徳川幕府はここに幕を閉じました。
 同じ日、薩長討幕派に「討幕の蜜勅」が出ましたが、翌日朝廷から大政奉還の裁可が下りたため、討幕派は動きが取れなくなりました。
 しかし、同年12月9日に薩長は王政復古のクーデターを敢行して、徳川家の政治的影響力を排除します。何が何でも幕府機構と徳川家を徹底的に滅ぼし、天皇を中心とした薩長主導の政治体制の確立を目指して戊辰戦争へ突入していくのです。

【諸説入り乱れて謎多い龍馬暗殺。真犯人は誰だ?】
- 討幕戦を嫌った平和主義者「龍馬」。目指すは貿易立国日本では - 

 もともと平和主義者だった龍馬は、武力による倒幕、徳川家の滅亡には加担しませんでした。自ら新国家を仕切ろうとする権力志向とも無縁でした。当面は天皇を中心に、徳川家を含めた有力藩主と国民の代表による合議制の政治システムをイメージしていました。
 京の醤油商「近江屋」で中岡真太郎と共に龍馬は暗殺されますが、真犯人を巡って諸説が入り乱れて謎が多いようです。
 武力による政権の完全奪取を意図する薩長にとっては、たとい大政奉還で政権を朝廷に返還しても、なお膨大な領地と武力を保持する徳川家の存続は耐えられないことでした。
 確かに龍馬は、薩長同盟を取り持って「討幕」への道筋を付けました。しかし膨大な幕府組織と巨大な徳川家を存続させることになる大政奉還を実現した龍馬の行動は、薩長にとって、決して〝歓迎すべき行為〟ではなかったでしょう。
 龍馬の頭には天皇を中心とした中央政府と、有力藩主(上院)と国民の代表(下院)による立法議会で万機公論を決する民主国家日本。七つの海を巡って広く通商を行い、世界に雄飛する平和国家日本のイメージが描かれていたのだと思います。
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