デモクラシーとロマンの大正はどんな時代だったのか?【歴史】

デモクラシーとロマンの大正はどんな時代だったのか?


 1912年7月に明治天皇が亡くなり、年号が大正に改まって100年目。つまり今年は"大正100年"に当たります。皆さんのおじいさんやおばあさん、あるいは曾じいさんや曾ばあさんで、86歳以上の人は大正生まれです。大正時代という言葉に皆さんはどんなイメージを持っているでしょうか。文明開化から日清、日露の戦いを経て近代国家建設に燃えた明治時代。軍国主義と悲惨な敗戦を経て経済大国に成長した昭和時代。その谷間にあってあまり返り見られることの少なかった大正時代を検証してみましょう。


- 大正は近代から現代への過渡期。戦争と革命の大変革の時代だった -
 大正時代は14年5ヵ月という大変短い期間でしたが、世界史的にみれば近代から現代への過渡期にあたる、革命と戦争の大変革の時代でした。
 1912年の大正元年は、中国で辛亥(しんがい)革命が終わって清朝が滅び、中華民国が成立した年です。それまで皇帝による専制君主が支配していた中国は、アジアで最初の共和国となったのです。
 辛亥革命で三民主義(民族主義・民権主義・民生主義)を唱えた孫文が中華民国臨時政府を樹立しましたが、革命を討伐するため清朝が派遣した軍閥の袁世凱(えんせいがい)が、逆に皇帝を退位させて孫文に代わって専制的な政治を行い、革命の理想は破れてその後中国は混乱していきます。
 その後間もなくヨーロッパでは、イギリス、フランス、イタリア、帝政ロシア、アメリカなどの連合国と、ドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、オスマントルコ、ブルガリアなどの同盟国が、世界を二分して第一次世界大戦(1914〜1917年)が戦われました。
 第一次大戦の終盤にロシア革命(1917年)が起こって帝政ロシアが倒れ、レーニンによって初の社会主義国家、ソビエト連邦(ソ連)が誕生しました。
 この社会主義政権を倒そうと、日本はアメリカやイギリス、フランス、イタリアなどと共にシベリアに出兵(1918〜1922年)しますが、ソ連の赤軍やパルチザンの抵抗に敗れて撤退していきました。


デモクラシーとロマンの大正はどんな時代だったのか? - 全国で米騒動が起こり、普通選挙運動、婦人参政権運動が盛んに! -
 国内的に見ても大正時代は、日本の近代史のなかで非常に多くの重要な出来事が相次いで発生した激動の時代でした。
 シベリア出兵をきっかけに、インフレ(物価が上がってお金の値打ちが下がること)による不況で国民の暮らしが苦しくなり、とくに米の値段が高騰して富山県を皮切りに、民衆によって米問屋が襲撃される「米騒動」が全国各地で発生しました。
 政治的には、明治以来の藩閥政治に対抗して、爵位を持たない平民宰相と呼ばれた原敬が首相となって本格的な政党内閣が誕生(1918年)しました。しかし原敬は期待された改革の実績を残すことなく、1921年に東京駅で一人の青年によって暗殺されます。
 一方、東京・上野では初の労働者の集まりであるメーデーが開かれ(1920年)、すべての日本男子に選挙権を!と主張する普通選挙運動が盛んになりました。
 また、平塚雷鳥や市川房江などの婦人活動家による婦人参政権運動も活発になり、大正デモクラシーと呼ばれる民主主義的風潮が広がっていきました。
 そして大正12年(1923年)に、10万人以上の死者行方不明を出した関東大震災が発生し、首都の大半が焼失しました。この震災復興に、当時内務大臣だった後藤新平が奮闘して、江戸時代以来の東京の街を改造して道路の拡張や区画整理などを行ない、大都市・東京の基盤が整備されていったのでした。

- 洗練された都市型の大衆文化が生まれ、サラリーマン層が誕生 -
 世界的にも国内的にも波乱万丈の激動の大正時代ですが、一方では芸術、文化、エンターテイメントの世界で、「大正文化」、「大正ロマン」と呼ばれる都市型の洗練された大衆文化を生み出しました。
 東京の中でも比較的震災の被害が少なかった丸の内や大手町では、エレベーターの付きのビルディングの建設が相次ぎ、現在のような一大オフィス街が形成されていきました。
 大阪では、京阪神を結ぶ私鉄の建設が盛んで、阪神間の路線沿いの郊外に多くの住宅都市が開発されました。
 明治時代の東京帝大(今の東大)は、高級官吏(公務員)の養成が中心でしたが、大正時代になると卒業生の半数が民間企業に就職するようになり、軍人と官吏に続く「サラリーマン」というホワイトカラーの新しい階層が誕生しました。
 また、明治時代まで呉服屋だった三越や白木屋、大丸、高島屋といった老舗(しにせ)が、次々に「百貨店」に変身を遂げていきました。
 明治神宮外苑に「神宮外苑野球場」ができたのが大正15年。その前の年には「東京六大学野球」がスタートしています。
 東京では、関東大震災で鉄道が被害を受けたこともあって、「自動車」が都市交通の重要な一翼を担うようになりました。東京の中ならどこへ行っても料金が1円以内という「円タク」が登場して、自動車が人やモノを運ぶ輸送手段として大きな地位を占めるようになりました。
デモクラシーとロマンの大正はどんな時代だったのか? - ラジオの放送が始まって大衆文化、大衆社会が加速した -
 「アーアー。聞こえますか。JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります。こんにち只今より放送を開始いたします」
 これは日本のラジオ放送第一声です。大正14年3月22日午前9時30分。現在のNHK東京放送局から日本でラジオ放送が始まりました。大阪放送局では6月1日から、名古屋放送局は7月15日からラジオ放送が開始しました。
 ラジオという新しい大衆メディアの登場です。ラジオは社会に大きな刺激を与え、新しい大衆文化と大衆社会の形成を加速させていきました。
 放送が始まった3月22日、午前10時に当時東京放送局総裁だった後藤新平が、「現代の科学文明の成果である無線電話(ラジオ)なしに、将来の文化生活を想像することは出来ない」と、後世に残る名演説を行ないました。
 放送開始当時、受信契約者は約3500でしたが、放送開始後半年で10万、1年後には20万を突破しました。

- 甲子園の中等野球中継、大相撲中継、ラジオ体操開始がラジオの普及に拍車 -
 ちなみに世界で最初にラジオ放送が始まったのは1920年、アメリカのピッツバーグ市です。放送初日にアメリカ大統領選挙の開票結果を速報し、共和党のハーディング候補の当選を速報したそうです。
 その後日本では昭和2年(1927年)に甲子園から中等学校野球大会の中継を放送。翌年には東京の両国国技館から大相撲の中継が始まっています。その翌年の1928年からは「ラジオ体操」の放送が始まり、今も続いています。
 ラジオが短期間で目覚ましい普及を見せたのは、当時最も人気のあった中等野球大会(今の高校野球)や大相撲の中継、さらには国民的行事となったラジオ体操の影響が大きいでしょう。
 日本の庶民生活で電化が始まったのも大正時代です。1910年にタングステン電球が発明されて一般家庭で電灯が普及し、やがて照明から交通(電車)、通信(ラジオ、電話)へと電化が広がっていきました。

【花開く大正ロマン】
デモクラシーとロマンの大正はどんな時代だったのか? - 理想主義と自由な空気に親しみ、洋食を食べ、歌謡曲を楽しむハイカラな時代 -
 大正時代は民衆と女性の地位が向上し、西洋文化の影響を受けた新しい文芸、絵画、音楽、演劇などが流行しました。大正デモクラシーの自由主義の空気が人間の生命を高らかに謳い、人間を肯定した理想主義や人道主義的な傾向が、都市を中心とした大衆文化を開花させていったのです。
 新しい時代の息吹を表すモダニズム(近代化)から派生した「大正モダン」や、ヨーロッパ芸術のロマンティシズムに影響された「大正ロマン」と呼ばれる独自の大正文化がそれです。
 文学では1910年に刊行された雑誌「白樺」を中心とした、白樺派と呼ばれる文芸活動が有名です。武者小路実篤、志賀直哉、有島武郎といった作家が代表的です。また、同時代では芥川龍之介や菊池寛、北原白秋、谷崎潤一郎、直木三十五など多くの文人が活躍しています。
デモクラシーとロマンの大正はどんな時代だったのか?  洗練された都会的な美貌を描いた竹下夢二の女性画は「夢二式美人」とも呼ばれ、大正ロマンを強くイメージしています。
 竹下夢二は児童雑誌や詩文の挿絵(さしえ)も多く描き、詩や歌謡、童話なども創作しています。とくに全国的な愛唱歌となった「宵待草」は、夢二の作詩に曲が付けられたものです。
 歌謡曲も大正ロマンの産物です。日本初の歌謡曲といわれる松井須磨子の「カチューシャの唄」をはじめ、多くの歌謡曲が誕生しました。
 大正2年から新聞に連載が始まった中里介山の長編時代小説「大菩薩峠」は、昭和に入るまで延々と続き、作者が亡くなって未完の大作となりました。
 このほか、大佛次郎の「鞍馬天狗」や林不忘の「丹下左膳」などの大衆娯楽小説も大正時代が始まりです。
 また社会風俗では、大正の三大洋食と呼ばれた「カレーライス」「とんかつ」「コロッケ」が登場して、庶民の食卓に洋食が並ぶようになりました。
 明治時代には庶民に縁のなかった「美容室」や「ダンスホール」が都市部でどんどん生まれ、男性の洋服姿が当たり前になったのも大正年間でした。
デモクラシーとロマンの大正はどんな時代だったのか? 【ロシア革命と大正デモクラシー】
- ロシア革命の影響を受けて民主主義思潮が広まる自由と革新の時代 -
 1914年6月28日、オーストリア皇太子のフランツ・フェルディナント夫妻が、訪問先のバルカン半島のサラエボで、セルビア人の一人の青年に暗殺されました。これがきっかけに始まった第一次世界大戦は、欧州全土を巻き込んで4年にわたって戦われ、1000万人以上の戦死者を数えました。
 長引く戦争で疲弊した帝政ロシアは国民の間から兵士まで不満が高まり、ついにロシア革命が発生。300年続いたロマノフ王朝は崩壊し、1917年11月レーニンが率いるボルシェビキによる世界初の社会主義国家「ソビエト連邦」が誕生しました。
 やがて第一次大戦が終結し、敗れた同盟国側のドイツ帝国もオーストリア=ハンガリー帝国も崩壊し、4年後に起こったトルコ革命でオスマン帝国も倒れました。
 大正デモクラシーには、辛亥革命からロシア革命、ドイツ革命、トルコ革命と連続した革命によって君主制国家が相次いで崩壊し、共和制国家が誕生するという時代背景がありました。
 日本は欧米列国とともに、誕生したばかりのソビエト政権に干渉してシベリアに出兵しますが、日露戦争に匹敵する戦費を浪費して、国内は大不況となりました。米の大量買占めや売り惜しみで価格が急騰し、庶民の暮らしは非常に苦しくなりました。
 このため、全国各地で米騒動が発生し、米問屋の焼き討ちや打ちこわしが2ヵ月以上も続きました。また、戦争による格差が拡大し、共産主義や社会主義思想が広がり、足尾銅山争議をはじめとした労働争議も全国的に広がっていきました。
 東京帝国大学の吉野作造が、「民本主義」を提唱し、同じく東京帝大の美濃部達吉が「天皇機関説」を発表して、国家が統治の主体であるべきだと主張して政党内閣制を支持しました。
 戦争と革命と大震災による波乱の時代だった大正は、ロシア革命をはじめとした新しい時代の息吹に触れた大衆による、より自由で理想的な社会を目指してデモクラシーの思潮が広がっていった革新の時代でもありました。
バナー
デジタル新聞

企画特集

注目の職業特集

  • 歯科技工士
    歯科技工士 歯科技工士はこんな人 歯の治療に使う義歯などを作ったり加工や修理な
  • 歯科衛生士
    歯科衛生士 歯科衛生士はこんな人 歯科医師の診療の補助や歯科保険指導をする仕事
  • 診療放射線技師
    診療放射線技師 診療放射線技師はこんな人 治療やレントゲン撮影など医療目的の放射線
  • 臨床工学技士
    臨床工学技士 臨床工学技士はこんな人 病院で使われる高度な医療機器の操作や点検・

[PR] イチオシ情報

媒体資料・広告掲載について