自らの体をものさしに日本を測った男【歴史】

自らの体をものさしに日本を測った男


【56歳から始まった17年に及ぶ日本測量の旅】
 日本初の、実測による「日本地図」を作ったことで知られる伊能忠敬。1800年(寛政12年)4月19日、彼が日本測量へと踏み出した一歩は、その後の日本の歴史を大きく動かす一歩となりました。
 現在は人工衛星で撮影された正確な地形写真を簡単に見ることができますが、このような技術がなかった時代に、彼はどのようにして精度の高い日本地図を作り上げることができたのでしょうか。伊能忠敬という人物が歩んだ軌跡の中には、現代に生きる私たちが見習うべきたくさんの学びがあります。


【日本地図作成の真の目的は地球の大きさを知るためだった】

自らの体をものさしに日本を測った男 - 学問への熱い想いを隠し半生を稼業に捧げる -
 伊能忠敬は1745年(延亨2年)、現在の千葉県・九十九里浜にある小関村に生まれました。幼い頃の名は三治郎といい、算法を熱心に学ぶなど、個性と才気に溢れる子だったといいます。17歳の時、佐原村の酒造家に入り婿して「伊能三郎右衛門忠敬」と名乗り、身に付けた計算力を武器に商才を発揮しました。
 忠敬は最先端の学問であった天文暦学を学びたいと思っていましたが、当時学問は稼業の役に立たない道楽とみなされていました。そのため興味を封印したまま、家と村に半生を捧げたのです。しかし伊能家代々の当主たちが隠居後に大仕事を成し遂げたことに影響を受け、自らも51歳の時江戸へ出て、念願の学問の道へ。幕府の天文方歴局で働く19歳年下の天文学者・高橋至時に弟子入りし、日中は勉学に励み、帰宅後は深川の自宅に作った観測場で熱心に天体観測に取り組んだといいます。

- 時代の後押しを受けて天文暦学から測量の道へ -
 やっとの思いで天文暦学を学び始めた忠敬が、なぜ測量の道へと進むようになったのか。これには時代の大きな後押しがありました。
 現代のように正確な時計もカレンダーもなかった時代、暦作りは政治を行う上で重要な意味を持っていました。日食や月食を予言することにより、暦の信憑性を明らかにしていたようです。
 忠敬が生まれる約100年前、こうした天文や気象などの自然科学に強い関心を持っていたのが徳川家八代将軍の吉宗でした。彼は改暦を目論んでいたことから、太陽の南中高度の観測を続けていたそうです。人々は当時、太陽が南中した瞬間を基準にして時刻を決めていました。また、吉宗が洋書の輸入禁制を解除したことで近代科学への扉が大きく開き、人々の暦に対する関心は次第に高まりを見せました。しかし吉宗は改暦の目的を果たせないままこの世を去り、その遺志は孫にあたる老中・松平定信に引き継がれたのです。この時、寛政の改革で暦作りに尽力したのが高橋至時たちでした。
 ところが、至時たちが作った暦はまだ完璧とはいえませんでした。とりわけ複雑な計算を要する日食の予報のためには、地球の大きさや形、日本各地点での経緯度のデータが必要だったのです。当時の暦は京都で計算されていたこともあり、他地域でも使えるものに進化させるためには、実際に測量するほか方法がなかったともいわれています。

- 幕府との利害が一致して蝦夷地測量の旅へ -
 こうした中、忠敬は地球の大きさを知るために一つの方法を考えました。それは2つの地点の位置で北極星を見上げ、この角度を比較すれば緯度の差が分かるため、球体である地球の外周が割り出せるというものです。
 忠敬は日々の熱心な観測から、自宅の深川・黒江町から天文方歴局までの緯度の差が、時間にして約一分半であることを知っていました。そこで歩測の練習を重ねて、2地点間の距離を測ったのです。
 しかし忠敬の自宅から天文方歴局までは約3㎞と短く、これを元に緯度を測るには誤差が大きいことが容易に予想されました。そこで至時が提案したのが、江戸から蝦夷地までの測量だったのです。しかし、この時の日本は多くの独立した藩で成り立っていたため、領地に自由に入って測量を行うためには幕府の許可を得なければなりませんでした。
 当時の日本は鎖国体制化にあり、特に蝦夷地の周辺でたびたび異国船が出没していました。このため幕府は現地の地理状況を把握したいと考えており、さらに至時の「江戸から蝦夷地に至る地図があれば、万一の時の役に立つ」との進言が大きな後押しとなり、測量は無事スタートしました。

- 伊能図に感嘆した幕府に推され一躍国家プロジェクトへ -
 さまざまな思惑が入り混じった測量の始まりでしたが、これを可能にしたのはやはり、忠敬の「許可状がもらえれば自費でも実行する」という決意と勇気にありました。実際、幕府からの支援は無いに等しく、当初6人という少人数での測量はさまざまな苦労もあったようです。
 しかしその後、第一次蝦夷測量を成功させたことで、次第に金銭面や人員的な支援を受けられるようになりました。また3年の月日をかけて日本の東半分の沿海地図が完成した時には、この地図を目にした将軍たちが出来栄えに驚き、伊能測量は個人事業から一挙に国家プロジェクトへと発展したのです。
 のちに「伊能図」と呼ばれるこの地図作りは、忠敬と至時が構想を練った上で着手していました。当時、地図は「絵図」とも呼ばれていたこともあり、精彩さと華麗さ、努力の跡まで強調するべく、測量時に用いた朱色の方位線が無数に引かれています。とりわけ「大図」と呼ばれる大きな原図では城や社寺の景観が丁寧に描かれ、山々の緑も色鮮やかに彩られました。
 また中図、小図と呼ばれる縮小地図の描画方法は共通していて、お城を□、宿場を○、点測地を☆で表すなど、記号表現を多用していたため、現代の地図に近いといえます。とりわけ京都を含む一枚には、寺社仏閣が細かい字でびっしりと書き込まれ、止まった宿など伊能測量隊の足跡をしっかりと読み取ることができます。

【あまりに精巧な伊能忠敬の地図はどのようにして作られたのか】
自らの体をものさしに日本を測った男 - 当時の技術を工夫した地道で丹念な地図作り -
 忠敬が行った測量の特徴は、海岸線やおもな街道の諸地点間の方位と距離を正しく測定することにありました。さらに曲がり角の度に共通の目標を定めて方位を測って補正を行い、相対的な位置関係を正確なものにしています。これは民間でも使われていた「導線法」や「交会法」と呼ばれる簡単なもので、決して特別な測量技術が用いられたわけではありません。よく伊能忠敬は〝二歩で一間(約69㎝)〟の歩測で日本を測ったといわれますが、この測量法が使われたのは全八回にわたる測量の中で、初回の蝦夷地測量のみと考えられています。
 さらに測量器具についても、中象限儀や方位盤、間縄など既存の道具が工夫して使われていました。とりわけ距離を測るための「間縄」は麻づくりであったため、水分による伸縮や強度の弱さなどに疑問をもち、チェーン上の鉄鎖や鯨のヒレで作った縄を代用したといいます。
 日本の測量技術はヨーロッパと比べて約100年遅れているといわれた中、忠敬が苦労してはじき出した緯度1度の長さは28・2里(=110・749m)と、今日の技術をもってはじき出された数値11万920mと比べても、1000分の1の誤差しかないのには驚かされます。

- 夜の間も続けられた地図づくり。地道な努力が誤差を縮めた -
 測量を終えて宿に帰った後は、その日の測量結果を記した野帳というノートを元に地図作りを行いました。まず白紙に引いた平行線の上に測量のスタート地点となる針穴をあけ、次の点までの角度と実際の距離を元にした縮尺を測り、分度矩や厘尺というものさしを用いて次の測量地点の針穴をあけます。この作業を繰り返して針穴を線で結べば一日分の地図が作られるという寸法です。
 こうした中、忠敬の測量で特徴的に用いられたのが天体観測です。忠敬は晴れた日の夜には必ず北極星の観測を行い、諸地点の緯度や経度を確認して位置の修正に努めました。
 現代では天文学や測量技術の進歩が進み、複数の人工衛星による全地球測位システム(GPS)を用いれば、自分が今地球上のどこにいるのかをすぐさま確認することが可能です。しかし、このように電子技術が発達した現代でも、測量作業は誤差との戦いといわれます。忠敬は緻密な作業の中で、随所に誤差を減らす工夫を凝らし、独特の手法で誤差を縮めていきました。

【日本地図誕生の第一歩が近代化への大きな一歩に】
自らの体をものさしに日本を測った男 - 測量に歩いた距離はおよそ地球一周分 -
 1815年2月19日、東京の八丁堀での測量を最後に、忠敬はすべての測量を終えました。この測量のために歩いた距離はおよそ地球一周分、計8回に上る測量の各地点の総計は33723・90㎞といわれています。
 この測量を終えた2年後、蝦夷地で回りきれなかった西北部の測定を託していた間宮林蔵が江戸に戻り、揃った原図を繋ぎ合わせたところ数㎜の誤差が発覚しました。これは球面である地球上で測量を行ったものを平面上にそのまま表したことによるもので、忠敬はこの修正を進める中、翌年73歳で亡くなります。この後も弟子たちの想いから、忠敬の死は伏せられたまま作業が続けられ、1821年にようやく「大日本沿海與地図」が完成したのです。こうして出来上がった伊能図は、現代の衛星撮影で日本列島の写真を重ねてもほぼ誤差がないほど正確なものでした。
 残念ながら幕府に納められた原図は明治時代に焼失してしまいましたが、アメリカやイギリスといった海外や、国内でも多数の写しなどが見つかっており、今でも世界各地の予想外の場所に伊能図が眠っていると考えられます。

- 忠敬はどのような想いでこの測量を成し遂げたのか -
 緯度一度の値を正確に求めようと始まったこの測量は、忠敬の〝愚直さ〟と、さまざまな人の想いや後押しを受けて無事成功を収めました。
 とはいえ、この17年間にわたる測量の日々には、共に夢を描いた師・高橋至時や信頼していた部下の死をはじめ、自身の病、大部隊になったことによる隊員の不和など、多くの困難があったといいます。こうした中、彼はどういう想いでこの測量を成し遂げたのでしょうか。
 対馬から長女の妙薫にあてた書簡の一部には「高名出世の初一念を完徹したるに外ならず」と記されており、世に名を残したいという強い想いが読み取れます。この一方で、測量日誌には「将来の参考になるよい地図を作りたい」という決意とともに、仕事熱心な部下への想いなども綴られています。
 途方もない大きな夢を実現させた彼の想いは、推測の域を出ることはありません。しかし伊能忠敬という人の生き様は、現代に生きる私たちにさまざまなことを教えてくれるものです。
 現在、日本測量を成し遂げた彼に呼応するかのように、太陽系や銀河系、宇宙全体の地図作りが進められています。宇宙飛行士の毛利守さんが「日本列島が地図と同じ形をしていることを実感として納得しました。伊能忠敬が苦労を重ねて作り上げた日本地図が、一瞬にして認識できたのです。」と語ったように、いずれ宇宙の地図と見比べた誰かの言葉が聞けるのは、そう遠くない日のことかもしれません。
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