ビキニ水爆実験から60年 第五福竜丸事件を知っていますか【歴史】

ビキニ水爆実験から60年 第五福竜丸事件を知っていますか

【原水爆禁止運動のきっかけに】
ちょうど60年前の日本を揺るがした大事件、それはマグロ漁船・第五福竜丸が南太平洋でアメリカが行った水爆実験に巻き込まれ、乗組員の久保山愛吉さんが亡くなったことでした。第五福竜丸事件として知られるこの事件は、食品や水の安全といった問題に人々が関心を抱くきっかけとなったうえ、原爆・水爆などの核兵器の使用に反対する原水爆禁止運動に取り組む大きな力となりました。木造の小さなマグロ漁船が日本の歴史に残した大きな足跡をたどってみませんか。

ビキニ水爆実験から60年 第五福竜丸事件を知っていますか - アメリカとソ連の水爆開発競争 -
 アメリカが太平洋戦争末期の1945年8月6日に広島、9日に長崎に原爆を投下して、世界は核の時代に入りました。アメリカと激しく対立していたソ連も急ピッチで原爆開発を進め、1949年8月には原爆実験に成功します。
 ソ連に追いつかれたアメリカは、原爆より破壊力の大きい水爆の開発に着手し、ソ連もこれに続いて、アメリカとソ連の熾烈な水爆開発競争がはじまりました。そして、1954年3月1日、アメリカは、南太平洋・マーシャル諸島に浮かぶビキニ環礁(珊瑚礁でできた島)で、水爆「ブラボー」の核爆発実験を行ったのです。

- 爆発の瞬間「西から太陽が昇った」 -
 静岡県の焼津港から出港したマグロ漁船・第五福竜丸は、3月1日朝にはビキニ環礁の東160キロの海上でマグロ漁を行っていました。はえ縄を海に投げ入れて休憩していたその時、西の空で「ブラボー」が爆発しました。
 「ブラボー」の威力は、広島に投下された原爆のおよそ1000発分であったといわれ、第五福竜丸の乗組員は爆発の瞬間を「西から太陽が昇ったようだった」と振り返っています。そして、爆発から1時間後に空から降り注いできた「死の灰」(爆発により生じた放射能を含む塵)を5時間にわたって浴びた第五福竜丸の乗組員は、23人全員が被ばくしてしまったのです。

- 第五福竜丸のほかにもたくさんの漁船が被災した -
 アメリカはビキニ環礁周辺の海域を立ち入り禁止区域に指定していました。しかし、「死の灰」は、立ち入り禁止区域の外で操業していた第五福竜丸のほか多くの漁船の上に降り注いだのです。このとき、ビキニ環礁周辺では1000隻の日本の漁船(その3分の1が高知県から出漁していました)が操業していましたが、第五福竜丸以外の漁船の被害はまったく調査されてきませんでした。高知県では高校の先生と生徒が、被ばくした漁船の調査を独自に行い、多くの乗組員が今も健康被害に苦しんでいることを明らかにしました。

- 久保山愛吉さんの死 -
 乗組員のなかで最年長の久保山愛吉さん(当時39歳)は、アメリカの水爆実験に遭遇したと直感して身の危険を感じ、すぐにビキニ環礁を離れて3月14日に焼津港に戻りました。上陸した乗組員の顔はみな焼けただれて黒くなっており、彼らは焼津の病院で「急性放射能症」(放射能を多量に浴びたことが原因の病気)と診断され、すぐに東京の病院に移送されました。
 最も重症だった久保山さんは、半年にわたる闘病もかなわず、9月23日夕方、「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」という遺言をのこして、急性放射能障害に起因する多臓器不全で亡くなりました。ほかの乗組員は1年以上にわたる入院ののち退院しましたが、現在までに半数以上の乗組員が被ばくに起因する肝臓障害などで亡くなっています。
 しかも、多くの乗組員が「放射能はうつる」「障害が遺伝する」などの根も葉もない噂により激しい差別にさらされたのです。
ビキニ水爆実験から60年 第五福竜丸事件を知っていますか - 捨てられた「原爆マグロ」 -
 帰港から2日後、第五福竜丸の被ばくが報道され、第五福竜丸のとってきたマグロも放射能に汚染されていることがわかりました。第五福竜丸以外の漁船が南太平洋でとったマグロも放射能に汚染されていたため、東京や大阪の卸売市場では、放射能に汚染されたマグロ(「原子マグロ」「原爆マグロ」と呼ばれました)の廃棄作業が続きました。
 廃棄されたマグロは、お寿司にして250万人分というばく大な量にのぼり、マグロ以外の魚も「放射能に汚染されている」といううわさがひろまったために、日本中で魚の売れ行きが落ち込み、魚屋さんやお寿司屋さんは大きな経済的打撃を受けました。

- 日本中に降り注いだ「放射能雨」 -
 水爆「ブラボー」による被害は、第五福竜丸をはじめとする多くの漁船を被ばくさせ、たくさんのマグロを廃棄させたにとどまりませんでした。「ブラボー」の爆発から2カ月が過ぎた5月16日から、日本のあちこちで強い放射能を含んだ雨が降るようになりました。
 「ブラボー」の爆発により飛び散った放射性物質が、雨にまじっていたのです。雨に含まれる放射性物質の濃度は、現在の飲料水の基準値の1000倍から4000倍に達しており、日本中で飲み水や農作物の安全についての不安が高まりました。さらに秋以降は、ソ連の水爆実験により飛び散った放射性物質を含む雨が降るようになったのです。
ビキニ水爆実験から60年 第五福竜丸事件を知っていますか - 「原水爆禁止」の世論の高まり -
 広島・長崎への原爆投下による被害の実態は、1945年の敗戦とともに日本を占領した連合国軍(事実上はアメリカ軍)が厳重な報道規制(プレス・コード)を行っていたため、ほとんど報道されることはありませんでした。1952年に占領が終わって報道規制が解かれたことで、広島・長崎の被害がはじめて一般国民に知らされ、核の恐怖が高まっていきました。
 久保山さんの死、マグロの廃棄、そして「放射能雨」への不安は、原爆・水爆などの核兵器の実験や使用に反対する大きな世論のうねりを呼び起こしました。日本の各地で「原水爆禁止」を呼びかける署名運動がはじまり、広島への原爆投下から10年目の1955年8月6日、広島で原水爆禁止世界大会がはじめて開催され、全国から寄せられた3200万人の署名とともに、世界に「原水爆禁止」の願いを発信することになったのです。

- 水爆実験を題材とした映画「ゴジラ」 -
 久保山さんの死から2ヶ月後の1954年11月に公開された映画「ゴジラ」は、日本の怪獣映画の元祖として知られる作品です。
 「ゴジラ」は、水爆実験の衝撃により長い眠りから覚めて、ビキニ環礁の海底から姿を現した太古の怪獣とされ、放射能をまき散らしながら東京の街を破壊し尽くすその姿は、わずか9年前の東京大空襲の記憶を人々に思い出させただけではなく、東京が水爆により壊滅するさまを想像させてあまりあるものでした。映画のなかでは、多くの人々がゴジラの攻撃によって被災するさまが描かれており、広島・長崎そして第五福竜丸の被災は、当時においては「次は自分かもしれない」と感じさせるほど身近な問題だったことがわかるでしょう。
 映画「ゴジラ」のラストシーンでは、「もし水爆実験が続けて行われるとしたら、ゴジラの同類がまた世界のどこかに現れるだろう」という警告が発せられますが、水爆実験はその後も続けられ、実験場となった地域に大きな被害を残したのです。
ビキニ水爆実験から60年 第五福竜丸事件を知っていますか - 実験場にされたマーシャル諸島の住民も被災した -
 アメリカは、その後もマーシャル諸島で水爆実験を続けました。1914年から1945年まで日本の事実上の統治下(1920年からは国際連盟委任統治領)にあったマーシャル諸島がアメリカの核実験場とされたのは、日本が戦争に負けてアメリカがマーシャル諸島を占領していた1946年のことでした。
 以来、1962年に核実験が地下での実験に移行するまで、マーシャル諸島では100回以上の原爆・水爆実験が行われ、爆発の衝撃によっていくつもの島が消滅しました。とりわけ、住民に大きな被害をおよぼしたのが、第五福竜丸を被ばくさせた水爆「ブラボー」の核実験でした。実験の危険性を知らされないまま日常通りの生活を送っていた住民は、第五福竜丸の乗組員と同じように「死の灰」を全身に浴びたのです。
 住民のなかには、危険性を知らないまま「死の灰」をなめた人もいました。「死の灰」は「腕につくと熱く、なめたら苦い味」だったといいます。アメリカはあわてて住民を避難させましたが、多くの住民が今も被ばくによる病気や障害に苦しんでいます。

- なお終わらない世界の核被害 -
 原爆・水爆などの核実験によって被ばくしたのは、第五福竜丸などの漁船の乗組員やマーシャル諸島の住民だけではありませんでした。アメリカやソ連をはじめとする核保有国の熾烈な核開発競争は、世界中に多くの被ばく者を生んだのです。
 アメリカは、マーシャル諸島のほかアメリカ本土のネバダ州などで核実験を行い、実験に参加したアメリカ軍の兵士や実験場で働く人たち、実験場近くの住民あわせて70万人近くが被ばくしたといわれます。
 ソ連は、日本に近いシベリアや中央アジアのカザフスタンで核実験を続けましたが、核実験により被ばくした人の総数は今もわかっていません。イギリスもオーストラリアや南太平洋で、フランスもアフリカのサハラ砂漠で核実験を行っていました。
 このように、世界中には多くの核実験による被ばく者が残され、今も続く病気に苦しんでいます。
ビキニ水爆実験から60年 第五福竜丸事件を知っていますか - ゴミ埋め立て地に放置された第五福竜丸 -
 焼津に帰港した第五福竜丸は、放射能の除去作業が行われたのち、東京水産大学の練習船として使用されました。 しかし、1967年に廃船となり、船体は東京湾のゴミ埋め立て地「夢の島」に放置されていました。ゴミ埋め立て地の片隅で朽ちようとしていた第五福竜丸にふたたび光をあてたのは、1968年にひとりの会社員が新聞社に送った「沈めてよいか第五福竜丸」と題する投書でした。これをきっかけに、放置されボロボロになっていた第五福竜丸の修理に、多くの人々がボランティアで取り組み、元の姿によみがえらせたのです。
 そして、1976年には、東京都立第五福竜丸展示館が開館して、第五福竜丸は水爆実験の生き証人として、来館者に無言で被ばくの実態を訴える役割を担っていくことになりました。第五福竜丸展示館の敷地内には、マグロのふるさと・南太平洋の海を思い起こさせる青い石でできた「マグロ塚」もあります。
 第五福竜丸の乗組員だった大石又七さんが、「原爆マグロ」と呼ばれて捨てられたマグロのことを後世に伝えようと、全国の人から1人10円ずつの募金を集めて建てたものです。「マグロ塚」は、多くの「原爆マグロ」が地中深くに埋められた東京・築地市場への移転を目指しています。
 2011年3月の東日本大震災による福島第一原子力発電所の事故以来、ふたたび第五福竜丸の被ばくがクローズアップされるようになりました。核実験であっても原発事故であっても、人々が被ばくすることに変わりないのです。かつて第五福竜丸が放置された夢の島は、2020年に開催される東京オリンピックの会場として利用されることになっています。 未来につながる夢の島の片隅で、静かに核実験の悲劇を訴え続けている第五福竜丸に、会いに行ってみてください。
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