「3C」時代の到来 高度経済成長と暮らしの変容【歴史】

「3C」時代の到来 高度経済成長と暮らしの変容


 皆さんは、バブル経済が崩壊したあとの1990年代後半に生まれ、「失われた20年」とも呼ばれる日本経済低迷の時代を生きてきました。
 しかし、かつての日本には、「高度経済成長」と呼ばれる時代(1955~73年)がありました。みなさんのおじいさん・おばあさんがまだ若く、一生懸命働いておられた時代です。ここでは、「がんばって働けば豊かになれる」とみんなが信じていた高度経済成長の時代を、さまざまな観点から振り返ってみましょう。

「3C」時代の到来 高度経済成長と暮らしの変容 - 高度経済成長以前の生活 -
 みなさんは、毎日、ご飯を食べ、お風呂に入っていますね。ご飯はスイッチを入れるだけで炊ける電気炊飯器で炊いたもの、お風呂は蛇口をひねればお湯が出るユニット・バスだと思います。しかし、こうしたものが各家庭に普及したのはここ50~60年、すなわち高度経済成長以後のことにすぎません。
 電気炊飯器もユニット・バスも、テレビも洗濯機も冷蔵庫も自動車もクーラーも無かった時代を想像してみてください。ゲーム機やスマートフォンはもちろんです。ご飯はかまどで炊き、お風呂は薪で五右衛門風呂を沸かすか、何日かに1回銭湯に通う。洗濯はたらいと洗濯板。たくさん買っても保存できないので食べ物の買い物はこまめに。個人で自動車を所有するなど夢のまた夢。そんな時代です。そのような時代を想像してみると、高度経済成長がいかに大きく私たちの暮らしを変えたかがわかると思います。
 以下では、私たちの暮らしの変化を中心に、高度経済成長の過程をたどってみることにしましょう。

- 高度経済成長のはじまり -
 1945年の敗戦の時点で日本経済は壊滅的な状態にあり、その後もなかなか回復しませんでした。そのような日本経済にとって回復のきっかけとなったのは、1950年にお隣の朝鮮半島で勃発した朝鮮戦争の軍事需要でしたが(1953年休戦)、一時的な軍事需要では持続的な経済成長は実現されません。1955年に始まるとされる高度経済成長の基礎となったのは、日本国内での民間需要の持続的な拡大でした。
 1955年の1人あたり国民総生産が戦前の最高水準を超えたのを踏まえて、1956年版の『経済白書』が「もはや戦後ではない」と記し、この言葉がこの年の流行語ともなったことはよく知られています。
 一般に高度経済成長の時代とされるのは、この1955年からオイル・ショックが起こる1973年までの期間です。この期間、日本経済は、最初は国内需要の拡大に、後には輸出の拡大に牽引されて、順調に成長しました。その成長率は年10%前後で、近年の中国を別とすれば歴史上類例のない高率でした。
「3C」時代の到来 高度経済成長と暮らしの変容 - 高度経済成長の背景 -
 1955~73年の日本で前例のない高度経済成長が実現した背景としては、いくつかのことを指摘することができます。
 まず、当時は世界経済全体が順調に成長していたこと、とくにアメリカを中心とする西側世界では、第二次世界大戦への反省から自由貿易を促進するためのシステムが設けられており、そこに日本も1ドル=360円という輸出に有利な条件で加わっていたことを指摘できます。また、50年代後半に石炭から石油へのエネルギー革命が起こり、中東から安い原油が安定的に輸入されるようになったことも重要でした。
 日本の若い経営者たちは、新しい技術を導入したり新しい分野に投資したりすることに前向きで、政府もそれを積極的に方向づけようとしました。また、高い貯蓄率を誇る日本人の貯金は、そのような投資の原資となりました。日本が平和憲法を持つ国で、軍事費の負担が相対的に軽かったことも、経済成長には有利に働きました。

- 高度経済成長の担い手 -
 もうひとつ忘れてはならないのは、戦後の日本は良質で豊富な労働力に恵まれていたという点です。
 敗戦後、多くの人々が戦地から引き揚げてきて、家族のもとに戻り、子供を作って、ベビーブームが起こりました。当時、貧しかった日本の人々は、メディアを通じて紹介されるアメリカの消費文化に触れるなかで、豊かになりたいと切実に願うようになりました。日本では、高度経済成長は、そのような人々を担い手として、外国人労働者を導入することなく実現されたのです。
 皆さんは「集団就職」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。高度経済成長は、第一次産業(農業)から第二次産業(工業)への重心の移動をともないます。そのため、高度成長期には、中学を卒業したばかりの15歳の少年少女たちが、東北や九州の仕事のない農村から集団就職列車で東京や大阪に出てきて、行政の仲介により斡旋された都会の就職先で働き始めるという光景が見られました。大学進学率はもちろん、高校進学率もまだ高くなかった当時、みなさんと同じくらいの年齢の若者たちも、汗水流して働いて、高度経済成長を下支えしたのでした。
「3C」時代の到来 高度経済成長と暮らしの変容 - 国民所得倍増計画と家電製品の普及 -
 1960年の日米安全保障条約改定にともなう政治的混乱で退陣に追い込まれた岸信介内閣を継いだ池田勇人内閣は、一転して経済政策重視の立場をとり、「国民所得倍増計画」を立案しました。この「所得倍増」は、高度経済成長の時代を象徴するスローガンとなります。当時の人々は、増えていくお給料で家電製品を買い揃えていくことで豊かさを実感していきます。そこで、高度成長期における家電製品の普及の様子を、当時の人々の生活から見てみることにしましょう。
 1950年代後半には、電気炊飯器や電気掃除機などのほか、「三種の神器」と呼ばれた白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫が普及していきました。日本でテレビ放送が始まったのは1953年のことですが、当初テレビは非常に高価だったため、人々は街頭に設置されたテレビなどで視聴していました。
 テレビが各家庭に普及していくきっかけとなったのは、1958年末の東京タワー(日本電波塔)のオープンと、1959年4月の皇太子(現・天皇)と正田美智子さん(現・皇后)の結婚パレードです。はじめて皇族・華族以外の生まれで皇族に嫁ぐことになった美しく知的な美智子さんと若々しい皇太子の姿は、広く国民の関心を集め、ふたりの結婚は国民的行事となり、結婚パレードを一目見ようと多くの人々がテレビを買い求めたのです。日本ではじめてのテレビ生中継となったこの放送は、当時の日本人の6人に1人が見たと言われています。
 また、電気炊飯器や電気掃除機、洗濯機や冷蔵庫は、家事労働のあり方を大きく変えました。家事労働が大幅に省力化されたのです。かまどやガス台でご飯を炊く手間、冬にたらいと洗濯板で洗濯する辛さを考えたら、これらの家電製品がどれくらい歓迎されたか、想像できると思います。
「3C」時代の到来 高度経済成長と暮らしの変容 - 「3C」時代の到来 -
 1960年代に入ると、カラーテレビ・自動車・クーラーが「新・三種の神器」と呼ばれ、すべて頭文字が「C」であることから「3C」とも呼ばれました。「3C」時代の到来です。
 日本でテレビのカラー放送が始まったのは1960年のことですが、当初はカラーで放送される番組も少なく、カラーテレビ自体も非常に高価だったため、あまり普及しませんでした。しかし、1964年の東京オリンピックがカラーで放送されたことなどで、60年代後半にはカラーテレビも普及していきます。それに続いて、自動車やクーラーを個人で所有することも珍しくなくなっていきました。
 ところで、高度経済成長は人口の都市への集中を促したため、都市の過密(交通渋滞や大気汚染、住宅不足など)が問題となります。こうした問題を解決するため、50年代後半以降、大都市の郊外に団地が設けられ、のちにはさらに大規模なニュータウンも開発されていきました。
 団地が登場した当時、水洗トイレやお風呂、ダイニング・キッチンを各戸に備えた団地は近代的で豊かな生活の象徴であり、都市で働く人々の憧れでした。住宅事情のよくない過密な都市に暮らす人々にとっては、郊外の団地に引っ越したり、マイホームを建てたりすることが、豊かな生活を送るためのひとつの目標となりました。
 「人類の進歩と調和」をテーマに掲げて1970年に開催された大阪万博には、ますます豊かになっていくであろう明るい未来への期待が込められており、大阪万博と連動して開発された広大な千里ニュータウンは、高度経済成長を通じて形成された新しいライフスタイルが実践される場となりました。
 大阪万博は、1973年のオイル・ショックで終焉を迎えることになる日本の高度経済成長のピークであったと言えます。都市の過密化と農村の過疎化、都市の大気汚染をはじめとするさまざまな公害など、高度経済成長には負の側面も多くありますが、正の側面を中心に紹介すると以上のようになります。
「3C」時代の到来 高度経済成長と暮らしの変容 - 今に続く長時間労働と性別役割分業 -
 家族という観点からすると、高度経済成長の過程で核家族化が進み、夫婦と子供2人というのが標準的な家族構成であるといわれるようになりました。また、お父さんは長時間献身的に働いて家族を養うためのお給料を稼ぎ、お母さんは家庭で無償の家事労働・育児労働・介護労働を担うという性別役割分業も、この時期にはっきりとしてきます。戦後日本で専業主婦率が最も高くなったのが、高度経済成長がピークを迎えた1970年代前半であったという事実は、性別役割分業の形成が高度経済成長と深く関わっていたことを示しています。
 このような性別役割分業は、みなさんにとっても身近なものだと思いますが、その特徴は、夫の長時間労働と、妻の無償の家事・育児・介護労働にあり、その影響は現在にまで及んでいます。このような性別役割分業が、社会意識の面でも社会制度の面でも根強く存在していることが、現在「女性の活躍推進」が叫ばれてもなかなかうまくいかない理由なのです。
 ところで現在は、高度経済成長期に比べると夫の雇用ははるかに不安定化しており、家族を養えるだけの賃金を確実に稼ぐことは難しくなりつつあります。また、高齢化にともなって介護を妻の無償労働だけで担うことは不可能となり、すでに介護の社会化(=介護保険制度の導入)が始まっています。
 育児についても社会化(保育所の増設など)の必要が言われていることは周知の通りです。夫の長時間労働を改めて日本を働きやすい社会にすること、育児や介護の社会化をさらに進めて妻も働きやすくすることが、現在の日本社会で女性の潜在的な力を引き出すためには必要なのです。そのためには、高度経済成長期に形成されて根強く続いている性別役割分業のあり方を変える、というとても大変な作業が必要なのです。
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