あの日から70年 日本の「戦後」のはじまった日【歴史】

あの日から70年 日本の「戦後」のはじまった日


 今から70年前の1945年8月15日、日中戦争から数えれば足かけ9年、太平洋戦争から数えても足かけ5年にわたって戦争を続けてきた日本国民は、「玉音(ぎょくおん)放送」により日本が無条件降伏したことを知らされました。その前後にはいったい何が起こり、人々はどのような経験をしたのでしょうか?
 戦後70年を迎えるにあたって、人々の経験の多様性に留意しながら、あらためて「戦後」を振り返ってみましょう。

あの日から70年 日本の「戦後」のはじまった日 - 「8月15日」は戦後のはじまりか -
 1945年8月15日の正午、ラジオで昭和天皇による「終戦の詔書」が放送され、日本の敗戦が国民に知らされました。以来、70年にわたって「8月15日」は終戦記念日とされ、東京では政府主催の全国戦没者追悼式が開催されています。
 このように、8月15日(終戦記念日)は戦争の終わった日と思われていますが、実際に8月15日の正午にすべての戦闘行為は終わったのでしょうか。太平洋戦争において、日本の国内で唯一、日本軍とアメリカ軍による激しい地上戦が戦われた沖縄では、すでに6月23日に日本軍による組織的戦闘は終わり、8月15日には事実上アメリカ軍の占領下にありました。
 一方、北海道の北にある千島列島や樺太では、8月8日にソ連が対日宣戦布告をして攻め込んできたことで、8月15日を過ぎても各地で戦闘が続いていました。樺太での日本軍による組織的戦闘が終わったのは、終戦から10日を過ぎた8月25日のことでした。
 また、アメリカ軍による本土空襲(東京大空襲の死者は10万人を超えました)や、8月6日・9日の広島・長崎への原爆投下(広島で約14万人、長崎では約7万人の人々が亡くなりました)で、心や体に傷を負った多くの人々にとって終戦はひとつの区切りにしか過ぎず、その後も後遺障害などによる長い苦しみを背負っていくことになったのです。
 さらに、日本が事実上支配していた「満洲国」(現在の中国東北部)で終戦を迎えた人々にとっては、ソ連の参戦は筆舌に尽くしがたい困難のはじまりでした。ソ連と「満洲国」の間の国境を超えてなだれ込んでくるソ連軍から逃げまどい、日本へ戻れないまま現地で亡くなった20万人以上の人々、あるいは中国人に救われて中国人として戦後を生き抜いた人々、このような人々にとって終戦記念日にどのような意味があるのでしょう。8月15日を過ぎてもさまざまな意味で戦争は続き、平和な生活はなかなか取り戻せなかったのです。
あの日から70年 日本の「戦後」のはじまった日 - 日本の無条件降伏を迫ったポツダム宣言 -
 では、なぜ8月15日が終戦記念日となったのでしょうか。日本が連合国に対して正式に降伏したのは、降伏文書に調印した9月2日のことで、今でもロシア(旧ソ連)では、対日戦勝記念日は9月2日とされています。なぜ8月15日が終戦記念日となったのかを理解するには、日本の無条件降伏に至る過程を知る必要があります。以下、日本に無条件降伏を促したポツダム宣言の発表から、日本が降伏文書に調印するまでの一ヶ月あまりの出来事を確認しておきましょう。
 1945年5月、日本と同盟関係にあったドイツが連合国に無条件降伏し、まだ降伏していないのは日本だけになりました。すでに1945年3月頃から、東京大空襲などアメリカ軍による日本本土への無差別爆撃は激しさを増し、アメリカをはじめとする連合国の側は日本の降伏は時間の問題だと考えていました。
 ドイツ・ベルリン郊外のポツダムに集まったチャーチル(イギリス)・トルーマン(アメリカ)・スターリン(ソ連)は7月26日、日本に無条件降伏を求める文書をまとめ、会談に参加しなかった蒋介石(中華民国)もこれに同意して米・英・中華民国の名でポツダム宣言が発表されました。ソ連が宣言に加わっていないのは、日本とまだ中立関係にあったためです。ポツダム宣言では、日本がただちに連合国に無条件降伏し、植民地・占領地を放棄すること、軍隊を解散すること、戦争犯罪人を処罰して国の民主化を進めることなどを求めていました。
 しかし、宣言の発表から2日後の28日、日本政府はポツダム宣言を「黙殺」すると発表して無条件降伏を受け入れませんでした。すでに日本軍は各地で壊滅的敗北を喫し、国内でも相次ぐ空襲で多くの人々が命を落としていたのに無条件降伏を受け入れなかったのは、ポツダム宣言で天皇の地位が保障されていなかったからでした。日本政府にとっては、無条件降伏後も昭和天皇がそのまま天皇の地位にとどまることが出来るかどうかが最大の関心事だったのです。

- ポツダム宣言「黙殺」と原爆投下・ソ連参戦 -
 8月に入ると、空襲はさらに激しさを増しました。また、アメリカ軍機が地上すれすれまで接近して、地上の人々を狙い撃ちにする機銃掃射も行われました。そして、8月6日月曜日の朝、何も知らぬまま職場や学校に向かった多くの広島の人々は、原爆に灼かれ無惨な死を迎えました。8日にはソ連が対日宣戦布告し、ソ連軍が「満洲国」になだれ込み、老人や子供は着の身着のまま決死の逃避行をはじめました。9日には2発目の原爆が長崎市浦上地区の上空で炸裂し、ふたたび多くの人々が苦しみながら亡くなっていきました。
 日本政府がポツダム宣言を受諾すると決めたのは8月14日でした。その日もアメリカ軍による空襲は続いていました。東洋一の兵器工場といわれた大阪城の周辺にある大阪砲兵工廠は、14日の昼前後に大規模な空襲を受けています。そして標的をそれた1トン爆弾が、すぐ近くの国鉄京橋駅のホームに命中し、電車を待っていた多くの人々の命を奪いました。このように終戦の前日、ポツダム宣言の受諾が連合国に伝えられようとしていたなか、沢山の人が命を落としたのです。
 歴史に「IF=もしも」はないといいます。それでもポツダム宣言をすぐに受け入れていたら、原爆投下もソ連参戦も起きず、何十万人の人が命を落とし戦後も長く苦しい生活を送ることはなかったかも知れません。
あの日から70年 日本の「戦後」のはじまった日 - ポツダム宣言受諾を知らせた「玉音放送」 -
 8月15日の朝、「今日の12時に、ラジオで重大な放送が流れるらしい」との話が広がりました。正午ちょうど、ラジオの前に並んだ人々は、はじめてラジオから流れる昭和天皇の肉声を聞きました。このときの昭和天皇の言葉が「終戦の詔書」であり、この放送を「玉音放送」といいます。この放送により戦争の終結が国民に伝えられたことで、この日が終戦記念日とされることになったのです。
 「朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み」と、難しい表現ではじまる「終戦の詔書」は、戦局が好転しないなかアメリカ軍は「残虐なる兵器」=原爆までをも使用しはじめたので、戦争の「継続」を断念してポツダム宣言を受諾するとして、国民も天皇の思いをくんで戦争の終結を受け入れてほしいと国民に呼びかけていました。音質の悪いラジオで難しい言葉遣いの放送を聞いたため、普通の人々は何を言っているのかよくわからなかったようです。しかし、「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」という一節だけは多くの人々の印象に残り、戦争に負けたことが理解されたのでした。
 日中戦争と太平洋戦争による日本の戦死者は230万人、空襲などで命を落とした一般人の死者は80万人以上といわれます。ここには、日本による植民地支配のもとで日本人として命を落とした朝鮮半島・台湾出身者も多く含まれています。たくさんの尊い命を犠牲にして、ようやく日本の戦争は終わったのです。
あの日から70年 日本の「戦後」のはじまった日 - 戦艦ミズーリ号艦上での降伏文書調印式 -
 国民が敗戦のショックにうちひしがれているなか、連合国による日本占領の準備は着々と進んでいました。
 8月28日、連合国総司令部(GHQ)が設置され、8月30日には連合国軍の最高司令官であるマッカーサー元帥が厚木に到着して、連合国による日本占領がはじまります。日本を占領した連合国の主力は、アメリカ軍とイギリス連邦軍でしたが、占領政策の遂行など事実上アメリカ一国による単独占領となっていました。
 ポツダム宣言を受け入れた日本が、正式に連合国への降伏文書に調印したのは9月2日のことです。東京湾上に停泊する戦艦ミズーリ号の艦上で、日本政府全権の外務大臣・重光葵、日本軍を代表して陸軍大将・梅津美治郎は、マッカーサー元帥をはじめ、アメリカ・イギリス・中華民国・ソ連・オーストラリア・カナダ・フランス・オランダ・ニュージーランド代表とともに降伏文書に署名し、日本は正式に連合国に降伏しました。
 9月27日、昭和天皇がマッカーサー元帥のもとを訪問します。このとき撮影された写真は2日後に各新聞に一斉に掲載され、日本人に敗戦の現実を実感させました。終戦まで昭和天皇は「現人神(あらひとがみ)」であり、神聖な存在であると教えられてきた人々にとって、マッカーサー元帥の隣に直立不動の姿で立つ昭和天皇の姿は大きな衝撃であったそうです。
あの日から70年 日本の「戦後」のはじまった日 - 植民地の解放、そして分断のはじまり -
 台湾や韓国では、8月15日は「光復節」(日本からの解放を祝う日)とされているように、終戦により台湾と朝鮮半島の植民地支配は終わりました。朝鮮半島の北部は、8月15日の時点ですでにソ連軍に占領されており、その後南部から朝鮮半島に上陸してきたアメリカ軍と北部を占領するソ連軍は、北緯38度線を境に朝鮮半島を分割して占領を実施することになりました。
 その後、アメリカとソ連の関係が悪化(冷戦のはじまり)し、朝鮮半島では1948年8月15日にアメリカ軍の占領地域で大韓民国(韓国)が、ソ連軍の占領地域で9月9日に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が建国されました。アメリカの支援を受けた韓国と、ソ連の支援を受けた北朝鮮の対立は激化して1950年6月に朝鮮戦争がはじまります。
 1953年7月には朝鮮戦争の休戦協定が結ばれていますが、今も韓国と北朝鮮の間に、戦争の完全終結としての平和条約は締結されていません。その意味で、朝鮮戦争は今も終わっていないのです。
 日本より3ヶ月早く降伏したドイツは、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連により4つに国土を分割して占領されました。冷戦が激しくなる中で、ドイツは、1949年にアメリカ・イギリス・フランスの支援を受けたドイツ連邦共和国(西ドイツ)と、ソ連の支援を受けたドイツ民主共和国(東ドイツ)という二つの国家に分裂する事態となりました。1990年のドイツ統一まで、敗戦国ドイツは、同じ民族が二つの国家に分かれて、互いに対立していたのです。
 ドイツと同じ敗戦国であったはずの日本は、アメリカ一国による占領のもと、民族が分断されることなく現在に至っています。
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