特異な歴史を歩んできた沖縄【歴史】

特異な歴史を歩んできた沖縄


【現在、日本にあるアメリカ軍施設の73・8%が沖縄に集中】
いま、アメリカ軍普天間飛行場の辺野古沿岸への移転をめぐって沖縄が注目されています。なぜ、沖縄にアメリカ軍基地がこんなに多く存在するのでしょう。実は沖縄の歴史が大きく関わっているのです。沖縄はかつて琉球国王が治める独立国だったという特異な歴史を歩んできました。こうした沖縄の歴史を振り返ることで、現在、沖縄が抱えている多くの問題を考えるヒントになると思います。


■沖縄の歴史を追って

特異な歴史を歩んできた沖縄 - 沖縄の先史時代 -
 沖縄は日本列島の最南西端にあり、多くの島々で構成されています。これらの島々にいつから人々が住み始めたかは定かではありません。しかし、旧石器時代には大陸と地続きであったため、さまざまな生物の往来があったことが化石などで証明されています。
 縄文時代になると、九州や中国と活発に交流が行われ、沖縄諸島独自の文化が育まれてきました。弥生時代に相当する遺跡からは、九州に運ばれたと思われる貝輪(腕輪の原料)となるゴホウラ貝、また九州から伝わったと思われる弥生土器や箱式石棺墓による埋葬法が見られます。その後、沖縄諸島は狩猟採集社会が続いたためか、日本との交流は途絶えていきました。
 しかし、先島と総称される宮古・八重山諸島は、縄文文化や弥生文化の影響を受けることなく、南方地域との交流を示す遺跡が数多く発見されています。

- 琉球王国の誕生 -
 長く続いた狩猟採集時代を経て、12世紀ころから沖縄は農耕社会へと移行していきます。これに伴って、沖縄の各地に按司(アジ)と呼ばれる有力者が誕生し、これらの人がグスク(支配者の居城)を築いて互いに勢力を争う「グスク時代」を迎えます。
 14世紀になると、これらの按司は沖縄の北部・中部・南部の三つの勢力に集約されていきました。この時代を「三山時代」と呼んでいます。しかし、次第に沖縄南部の按司である尚巴志(しょうはし)が頭角を現し、1429年に各地の按司を統一しました。琉球王国の誕生です。
 琉球王国は、1429年から1879年の廃藩置県までの450年間にわたって存在しました。この間、中国や日本、東南アジアなどの周辺諸国と積極的に交易を行う「大交易時代」を築きました。
 また、琉球王国は統治機構を整備するとともに、数々の建造物も建設して琉球の黄金時代を構築していきました。その象徴ともいえるのが政治、外交、文化の中心地として威容を誇った首里城です。首里城は1945年の沖縄戦で焼失しましたが1992年に復元され、2000年12月に世界遺産に登録されました。

- 薩摩藩の侵攻と琉球再建 -
 琉球王国は、独立国家として独自の文化を開花させていきました。ところが1609年、幕府を後ろ盾とした薩摩藩の侵攻を受け、琉球王国はなすすべもなく薩摩の支配下に置かれました。しかし、琉球王国は解体されることなく日本の幕藩体制に組み込まれました。中国との貿易は、薩摩藩が琉球王国を隠れ蓑とした形で続けられました。これは、薩摩藩が中国と密貿易を続けることで莫大な利益を得られるからです。
 薩摩侵攻から約50年後の1665年に、政治家で按司地頭の羽地朝秀が摂政に就任し、薩摩の支配下で危機に瀕した琉球王国を、協調路線を基盤に据えた大胆な政治改革で立て直しを図りました。羽地朝秀の改革は琉球王国を代表する政治家蔡温に引き継がれます。琉球王国は、日本や中国の文化を積極的に吸収しながら従来の琉球文化に融合することで、独自性の強い新たな近世琉球文化を誕生させたのです。
特異な歴史を歩んできた沖縄 - 琉球王国の終焉 -
 19世紀に入ると欧米諸国がアジアに次々と進出してきました。それに伴って日本の鎖国体制は崩壊し、新しく誕生した明治政府は中央集権化を目指して諸政策を打ち出していきました。その一つが、封建制度を廃止するために藩を廃し、府県に改める廃藩置県がありました。
 明治政府のもとで、琉球王国も1872年にひとまず琉球藩とし、政府の管轄下に置かれました。そして、1879年には琉球藩から沖縄県に移行します。このように琉球王国は明治政府によって強制的に日本に組み入れられ、450年にも及ぶ琉球王国は終焉を迎えました。琉球藩の設置から廃藩置県までの一連の過程を琉球処分と呼んでいます。
 1879年に沖縄県が設置されましたが、日本と行政制度や身分制度、租税制度などが異なるため、政府に対して根強い反発がありました。明治政府は沖縄の反発を抑えるために急激な改革を避け「旧慣温存策」を採用しました。この結果、沖縄の諸政策は他府県から遅れをとり、住民の生活を苦しめることになりました。

- 太平洋戦争までの沖縄 -
 沖縄に対する日本への同化政策は、19世紀後半の日清戦争後から強化されていきました。中でも、皇民化教育は徹底され、神道の布教が全県的に行われました。1898年には徴兵令が施行され、日露戦争では日本人として戦場に赴きました。
 日本の経済状況は、大正末期から昭和にかけて深刻な不況に見舞われます。沖縄も厳しい経済状況下に置かれ、人々は食を求めてソテツの実や幹を食べたりしました。しかし、毒抜きが不十分で亡くなる人も出る「ソテツ地獄」が起こりました。
 そのため、多くの市民が新天地を求めて本土はもとより、南洋諸島やハワイ、ブラジルなどに移民として海を渡っていきました。

- 本土防衛の前線基地として -
 1941年12月8日に始まった太平洋戦争では、沖縄は本土防衛の前線基地として位置づけられました。終戦前年の1944年には、本土決戦の前線基地として沖縄で持久戦を戦うための守備軍が送り込まれました。守備軍は沖縄県民を徴用して全島要塞化をめざして突貫工事を行いました。
 1945年3月23日、アメリカ軍は沖縄に激しい空襲や艦砲射撃を加え、4月1日に沖縄本島中部西海岸に上陸しました。日本で唯一の地上戦が行われ、住民約10万人を含む多くの人が犠牲になりました。そして7月2日、アメリカは3か月にわたる戦闘の終了を宣言しました。
特異な歴史を歩んできた沖縄 ■戦後、基地の島として多くの苦難に直面

- 沖縄はアメリカの統治下に -
 日本が1945年8月15日、ポツダム宣言を受諾して戦争は終わりました。日本は連合国によって占領され、南西諸島もアメリカの軍政下に置かれました。
 1951年にサンフランシスコ講和条約が締結され、日本は独立しました。当時、世界はアメリカを中心とする西側諸国と、ソビエトを中心とする東側諸国との間で「冷戦」という緊張状態にありました。アメリカは沖縄の戦略的位置を重視し、引き続きアメリカの施政権下に置いて共産主義の侵攻を防ぐ砦として位置づけました。
 アメリカは沖縄の基地機能を強化するために強制的に土地接収を行い、そこにアメリカの軍用施設を次々と建設していきました。

- 沖縄の祖国復帰が実現 -
 アメリカの基地強化を受け、沖縄住民は土地接収反対運動を繰り広げ、次第に祖国復帰運動へと発展していきました。
 当時の佐藤栄作首相は、沖縄の祖国復帰は国民の念願であるとし、「沖縄の返還なくして日本の戦後は終わらない」と述べています。また、「核兵器を作らず、持たず、持ち込ませず」という非核三原則を打ち出しました。こうした経緯を経て、1972年5月15日に沖縄の祖国復帰が実現しました。佐藤首相は非核三原則の制定などでノーベル平和賞を受賞しましたが、その後アメリカと有事の際の核持ち込みの密約が明らかになっています。
 沖縄返還後、本土の基地は減らされましたが沖縄の基地は縮小されません。戦後70年を迎える今日でも、日本にあるアメリカ軍基地施設の約74%が沖縄に配置されるなど、多くの問題が残されたままになっています。
特異な歴史を歩んできた沖縄 - 現在の沖縄県のすがた -
 沖縄県の広さは22万7672haで、都道府県別では香川、大阪、東京に次いで下から4番目の面積しかありません。こんな狭い沖縄に、アメリカの軍用施設が県の面積の10・2%に当たる2万3176ha
を占めています。また、全国のアメリカ軍用施設のうち73・8%が沖縄に集中し、他の都道府県に比べて過重な基地負担となっています。このため、沖縄が日本に返還されて以降、アメリカの軍用施設をめぐって沖縄県、政府、アメリカの間で激しい議論が展開されてきました。
 アメリカの広大な軍用施設は、沖縄のインフラ整備に大きな障害になっています。また、航空機の騒音や実習演習による山林火災、航空機の墜落事故、軍人による暴行事件など、沖縄県民に大きな不安を与える事件が多発しました。沖縄県ではこうした問題解決のため、基地の撤去や基地の県外移設などを求めてきました。
 しかし、アメリカの軍用施設で働く日本人、軍用地の使用料で暮らす人々、基地に住む軍人やその家族の消費など経済面も軽視できません。また、ソビエトの崩壊で東西冷戦状態は終息しましたが、近年、急激に台頭してきた中国と近接するため、日本の安全保障という面でも沖縄の基地の位置づけは重要性を増しているのが現状です。

- 普天間飛行場の移転問題 -
 普天間飛行場の移転問題が浮上したきっかけは、1995年にアメリカ兵士による少女暴行事件です。この事件を契機にアメリカ軍基地の移転を求める声が高まりました。とりわけ、取りざたされたのが人口密集地にあり「世界で最も危険な基地」と呼ばれる普天間基地の移転です。人口密集地に空軍基地があれば、航空機事故はもとよりアメリカ軍人と接する機会も多く、軍人とのトラブルが今後も予想されるからです。
 1996年4月、日米両政府は5~7年以内を目標に普天間飛行場の返還で合意し、1999年に移転先を名護市の辺野古沖に決定しました。辺野古にはキャンプ・シュワブと呼ばれるアメリカ軍基地があり、その沖に集落の上空を避けてV字型滑走路を建設するというものです。
特異な歴史を歩んできた沖縄 - 辺野古沿岸で調査を開始 -
 2013年に民主党から自民党政権に変わり、政府は2013年3月に沖縄県に辺野古沿岸部の埋め立てを沖縄県に申請しました。当時、沖縄県の仲井真知事は県外移設を主張していましたが、政府が示した基地負担軽減策や沖縄振興策を評価して埋め立てを承認しました。
 政府は昨年1月から、辺野古移設に向けての各種調査、設計業務に入札手続きなど移設環境を整えていきました。また、地元漁業協同組合とも補償金の支払いで合意し、漁協は埋め立てを容認しました。しかし、反対派は座り込みや作業現場にボートなどを繰り出して反対運動を続けています。
 こうした中、昨年11月の沖縄知事選挙で、移設反対の翁長雄志前那覇市長が当選しました。翁長知事は今年3月、ボーリング調査で海底の岩礁が破壊される可能性が高いとして防衛相沖縄防衛局に作業の停止を求めました。4月に安倍首相と初めて会談し、「住宅地に隣接する危険な普天間飛行場の辺野古移転が唯一の解決策だ」とする政府に対し、知事は「昨年の知事選挙で辺野古移転反対という沖縄の民意が示された」と主張し、両者の意見は平行線を辿っています。
 辺野古移設計画は、飛行場の移転問題だけにとどまらず、日本の安全保障や日米同盟にも大きく関係する問題です。日本人すべてが自らの問題として考える必要があるでしょう。
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