読み書き能力と出版文化から江戸時代を考える【歴史】

読み書き能力と出版文化から江戸時代を考える


 現代の日本では、すべての子どもが義務教育で読み書き能力を身につけ、自由に本を読んだり、ウェブサイトを閲覧したりすることができます。しかし、世界を見渡すと簡単に本を入手し、読むことが困難な国もあります。
 日本でも、中世までは読み書き能力を持つ人は、貴族や武士などごく一部の人に限られていました。庶民にまで読み書き能力が広まったのは、江戸時代に入ってからのことです。読み書き能力を身につけた庶民は、自分たちの読書欲・知識欲を満たすさまざまなコンテンツを求めるようになり、日本で商業出版の礎が築かれることになります。読み書き能力や出版文化を通して江戸時代を考えてみました。

読み書き能力と出版文化から江戸時代を考える - 戦国時代を経て江戸時代に -
 戦国時代、日本では大名同士の戦が繰り返され、国土は荒廃していました。
 長らく続いた戦乱を経て、織田信長・豊臣秀吉により全国が統一され、1603年に徳川家康によって江戸に幕府が開かれました。以降、明治維新に至る約260年にわたる江戸時代は、「士農工商」による身分差別、「農民一揆」などといった騒乱はありましたが、国土を荒廃させるような大規模な武力衝突は無くなりました。
 確かにこれほど長い間、大規模な戦争が起きなかったことは、当時の世界では珍しいことです。このため、近年では江戸時代を平和な時代であり、近代日本の発展の基礎を作った時代だともいわれています。 その要因の一つに、読み書き能力や出版文化の普及があげられます。
読み書き能力と出版文化から江戸時代を考える - 平和の到来と読み書き能力の普及 -
 江戸時代の前半、とくに17世紀は、徳川将軍家による平和のもと、農業生産力が高まり人口が増加して都市が発達しました。これに伴って流通網も拡大し、著しく経済が成長しました。社会が安定し、その仕組みが複雑化していくと、多くのことが現在のように文書によって処理されるようになっていきました。
 その結果、武士や農村の農民、都市の町人などが日々の営みを行う上で、読み書き能力が必要になっていきました。また、上層農民や上層町人が村や町を運営するため、あるいは普通の農民や町人が自分の家業を営むために必要な能力になりました。多くのことが文書によって処理され、膨大な量の古文書が生み出された江戸時代の社会では、借金証文の1枚でも書けた方が有利に世渡りできる社会だったのです。
 そのため、江戸時代の親たちは、子どもに読み書き能力を身に付けさせようとしました。江戸時代は、以前に比べると生産力が高くなったとはいえ、子どもも重要な労働力として家業に従事していました。このため、すべての子どもが読み書きの勉強ができたわけではありません。しかし、子どもを働かせなくてもよい経済的な余裕のある親たちは、子どもが7歳くらいになったら、寺子屋と呼ばれる個人経営の小さな塾に通わせて読み書きを勉強させました。

- 寺子屋での学びと身分制社会 -
 寺子屋とは、江戸時代に子どもが読み書き能力を身に付けるために通った塾のことです。寺子屋のお師匠さんとは、浪人をしている武士や、家業を継げなかった農家・商家の息子たちなど、読み書きを教えることを稼業とする人たちのことです。女性の寺子屋師匠もいました。
 寺子屋での教育は、お師匠さんとそこに通ってくる子どもたちと1対1の関係のなかで行われました。通ってくる子どもの年齢が多様であり、それぞれの子どもの置かれた社会的立場が異なっていたためです。現在では、同じ年齢の子供は義務教育段階で、全員が同じ内容のことを学びます。江戸時代は「士農工商」と呼ばれる身分制社会だったため、置かれた社会的立場によって、子どもが必要とする知識が異なっていました。その必要を見極め、それぞれの子どもに適切な教材を与えることが寺子屋のお師匠さんの重要な仕事でした。寺子屋での教育は、同じ年齢の子どもを集めて同じ内容を教える一斉授業でなかったのです。
 寺子屋で用いられた教科書のことを「往来物」といいます。寺子屋のお師匠さんは、農民の子どもには『農業往来』を与えて農業に必要な言葉を学ばせ、商人の子どもには『商売往来』を与えて商業に必要な言葉を学ばせました。男の子とは違う立場にある女の子には、『女大学』などが与えられました。寺子屋とは、子どもが身分制社会のなかで生きていくのに必要な読み書き能力を学ぶ場所だったのです。
 江戸時代の子どもたちが学んだのは、「御家流」と呼ばれるスタイルのくずし字(草書体)でした。当時の社会で、一般的に用いられていたのはくずし字であったため、子どもたちもまずはこのようなくずし字を学びました。当時、くずし字が日常的に用いられていたのは、筆ですばやく書くにはくずし字のほうが合理的だったからです。くずしていない文字(楷書体)は、学問的な書物など日常生活とは違うところでしか用いられていませんでした。
読み書き能力と出版文化から江戸時代を考える - 朝鮮出兵と活字印刷術の伝来 -
 日本で商業出版が始まったのは、読み書き能力の普及が始まったのと同じ17世紀前半のことです。以下ではすこし時代をさかのぼりながらその経緯を見てみることにしましょう。この経緯には、豊臣秀吉の朝鮮出兵と、それに伴う朝鮮半島からの文化的影響が、深く関わっています。
 豊臣秀吉が2度にわたって朝鮮半島に出兵したのは、16世紀の終わりのことです。この出来事は、日本では「文禄・慶長の役」、韓国では「壬辰・丁酉倭乱」と呼ばれ、歴史の教科書にも記載されています。この出兵は朝鮮側に甚大な被害を与え、現在も痛ましい出来事として記憶されていますが、日本には大きな文化的影響を与えました。
 具体的には、焼き物の技術者が日本に連れてこられて焼き物の技術が伝わりました。また、学者が連れてこられたり書物が持ち帰られたことで、朱子学の受容を促したことなどがあげられます。もう一つ重要なことは、世界の文化史上でも有名な朝鮮の活字印刷術が伝えられたことです。
 日本では、16世紀の終わりから17世紀の初めにかけて、有力者たちが新しくもたらされた活字印刷術を用いて古典的な書物を刊行することが盛んに行われました。後陽成天皇により、文禄2年(1593年)に刊行された『古文孝経』がその最初のものです。後に、徳川家康を始めとする権力者やその周辺の学者、有力な仏教寺院とその僧侶などにより、さまざまな古典がこの新しい技術を用いて刊行されました。このとき刊行された書物は、「古活字版」と呼ばれています。
 ところで、後陽成天皇や徳川家康はなぜ古活字版を刊行したのでしょうか。本屋を始めてお金儲けをしようと思ったわけではありません。彼らは、新たに伝来した最先端の技術を用いて古典を刊行することで、自らの文化的威信を高めようとしたのだと考えられます。有力寺院が仏教経典を刊行したことには宗教的な意味もあったでしょう。つまり、有力者による古活字版の刊行は、商業活動ではなく文化的・宗教的事業だったのです。
読み書き能力と出版文化から江戸時代を考える - 商業出版の成立と展開 -
 しかし、次第にこの新しい技術を用いて仏教経典を印刷し、寺院の門前で売るような人物も現れてきます。日本における商業出版の始まりです。また、有力者の刊行した古活字版は、それまでは秘蔵の写本として伝えられていたものから、新興の出版業者に出版すべきコンテンツを提供する役割もはたしました。
 活字印刷術は、大きめの文字の美しい本を少部数印刷するのには適した技術でしたが、大量印刷には向かない技術でした。古活字版は、一度に印刷されたのはせいぜい数十部程度であったといわれています。また、漢文の訓点を印刷できないなど技術的な制約がありました。さらに、組んだ活字をばらしてしまったら注文に応じて再版することができないなどの不都合もありました。このため、商業出版の成立・展開の過程で、活字印刷から整版印刷への技術的な転換が起こることになりました。
 整版印刷とは、清書した原稿を裏返しにして板に貼って文字の部分を残して彫り、その板(版木)に墨を塗って版画と同じ要領で印刷するという方法です。この方法だと、最初に手間はかかりますが、いったん版木を作ってしまったら、版面が擦り切れるまで数千枚は印刷でき、需要に応じて再版することもできます。くずし字や漢文の訓点、挿絵などを自由に印刷できる点も大きな利点です。
 日本における商業出版は、17世紀の前半に、伝統的な文化都市である京都で成立しました。成立後まもなく、活字印刷から整版印刷への技術的な転換が起こり、以後の展開の基礎が築かれました。最初に刊行されたものの多くは、仏典、漢籍、日本の古典など、堅い内容の本でした。
 その後、庶民が読み書きを勉強するための教科書である往来物、多くの庶民が愛好した謡や俳諧の本、さらには仮名書き・絵入りの庶民向けの読み物などの割合が増加していきました。
読み書き能力と出版文化から江戸時代を考える - 大量出版で文化的力量が向上 -
 江戸時代が始まって約100年が経過し、経済成長がピークに達した元禄・享保期には、商業出版は大坂や江戸にも拡大し、大量出版文化が確立されます。大都市の本屋に行けば本を買える時代、大都市の近郊農村であれば行商の本屋が本を持って売りに来てくれる時代がやってきたのです。この時期の大坂では、井原西鶴の浮世草子や近松門左衛門の浄瑠璃台本が刊行されています。このような書物を好んで読んだのは、17世紀を通じて読み書き能力を高めた庶民たちでした。
 その後、18世紀から19世紀にかけて、読み書き能力はますます普及し、庶民向けの書物もさらに大量に出版されていきました。最初に書いたように、文字のない社会や、文字はあっても本屋で本を買えない社会も珍しくないことを考えると、江戸時代の日本は、庶民が大変な文化的力量を蓄えた社会だったといえるでしょう。
 このように見てくると、ペリー来航(1853年)の意味も、進んだ西洋文明が遅れた日本の眠りを覚ました、というのとは違うかたちで解釈できるかもしれません。少なくとも、当時の日本が新しい状況に十分対応できるだけの文化的力量を備えていたといえそうです。
 このように、読み書き能力や出版文化を考えることは、江戸時代の歴史を捉え直すうえで大きな手がかりとなるでしょう。
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