今年は明治改元から150年【歴史】

今年は明治改元から150年


【近代日本の出発点、明治維新を考える】
 慶応4年(1868年)9月8日に、元号が明治と改められて今年は150年。近代日本の起点となった明治維新とはどういうものだったのでしょうか。非常に短期間の間に日本は、二百数十の藩からなる地方分権の封建体制から中央集権の近代国家に転換し、欧米列強に負けない国づくりをしていきました。驚異ともいえるドラスティックな政治改革はどうしてなし得たのでしょうか。混沌とした国際情勢の中で日本の前途が危惧されている今、改めて明治維新を考えてみました。

今年は明治改元から150年 - 地方分権の封建体制から中央集権の近代国家へ -
 維新の立役者西郷隆盛の活躍を描いたNHK大河ドラマの「西郷どん」が人気を集めています。明治維新とは、幕末から明治初期にかけて19世紀後半の日本で起きた政治・社会の大変革を言います。薩摩、長州を中心とした雄藩が天皇を権威の象徴として幕藩体制に挑戦し、新国家建設に成功した体制変革でした。
 一般にペリー率いる4隻の黒船来航(1853年7月)から大政奉還(1867年11月)までを幕末の騒乱期といわれます。当初、外国との通商、開港を進める幕府の外交政策に反対する勢力が、外国人を打ち払う「攘夷」運動として始まりました。
 攘夷論は天皇を尊び朝廷の権威を高めようする「尊王攘夷」となり、やがて外国船と砲火を交えた(下関戦争・薩英戦争)長州藩や薩摩藩を中心に、幕府を倒そうとする「尊王倒幕」へと移っていきました。
今年は明治改元から150年 - 1868年10月に明治改元、翌年3月東京遷都 -
 こうした動きに対して15代将軍徳川慶喜は1867年11月、朝廷に政権を返還(大政奉還)し、同年12月に薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通、公家の岩倉具視らは、天皇を中心とした政府の設立を宣言(王政復古の大号令)し、260年余り続いた徳川幕府は幕を閉じました。
 翌68年4月に天皇が神々に誓う形で新政府の基本姿勢を示す五箇条の御誓文を明らかにし、同年10月に元号が「明治」に改元されました。さらに翌年の69年には千年の都といわれた京都から東京に遷都し、文字通りの「御一新」となりました。
 明治維新はスタートしましたが、地方には江戸時代のままの制度である大名が治める藩が存在し、独自に税(年貢)を徴収するなどの地方分権制がとられていました。
 近代国家としての体制変革は、「版籍奉還」「廃藩置県」「地租改正」「徴兵制」「学制公布」といった社会システムの改革によってヨーロッパをモデルとした独立主権国家を目指し、国会開設や憲法制定などを通して近代国家としての体裁が整っていきました。

- 明治4年7月の廃藩置県で藩体制を解体 -
 明治2年(1869年)の版籍奉還で、これまで各藩に所属していた土地(版)と人民(籍)に対する支配権が朝廷に返還されました。さらに明治4年の廃藩置県で藩体制を解体し、中央政府(太政官制)に任命された府知事、県令(県知事)が各地域の行政に当たりました。
 とくに廃藩置県は、全国に276あったといわれる諸藩が地方政府を形成していた地方分権的な幕藩体制から、中央集権的国家体制への体制変換でした。これによって各藩の藩主と武士団は身分と家禄を手放さざるを得なくなりました。
 つまり幕藩体制という旧体制の既得権益をことごとく奪い、その上に中央集権的な近代国家を形成していくという難業に挑んだ時期が明治維新だといえます。
 また江戸時代までの古い身分制度を改め、公家や大名を華族に、武士を士族に、百姓や商人、職人を平民とする四民平等がなされました。これによって身分が違う者同士の結婚も認められ、法の下に平等という国民国家の基本的要件が整っていきました。
今年は明治改元から150年 - 維新の推進力はナショナリズムと対外危機感 -
 幕末の騒乱は、長らく鎖国状態にあった日本が世界史に登場していく時代でもありました。
 この時期、日本近海にはイギリス、フランス、ロシアなどの軍艦や商船、捕鯨船が相次ぎ出没して開港を求めてきました。とくに大国の清国があっけなくイギリスに敗北したアヘン戦争(1840~1842年)が大きく影響して、国内に対外危機意識が高まっていきました。
 幕末から明治にかけての19世紀後半の世界は帝国主義の真っただ中でした。「西力東漸」つまり西欧諸国のアジア地域への進出により、インドの植民地化、中国沿海部諸都市の租界地化など、アジアのほとんどは列強による植民地、半植民地支配のもとに置かれていました。明治維新の推進力となったのは、ナショナリズムの高まりと、その裏返しとしての欧米列強に対する強い危機意識でした。
 弱肉強食ともいわれるこの時代に、日本はいかにして独立を保ち得たのでしょうか。ひとつには維新の指導者たちが、グローバルな視点からかなり現実的な国家ビジョンを描いて実行に移していったことが挙げられます。

- 幕臣を含め開明的な人材が維新をリード -
 アヘン戦争における清国の敗北、黒船を率いたペリーによる砲艦外交という「西洋の衝撃」を受けた日本は、中央集権国家を樹立し、富国強兵とそのための殖産興業を国家的事業として展開し、西欧列強に負けない国づくりを目指して近代化を進めていきました。
 維新をリードしていった開明的な人材は幕臣の中にも多く存在し、戊辰戦争後明治政府の重要ポストについて維新推進の一翼を担いました。維新の指導者の中には薩長藩士、幕臣を問わず下層武士出身者が多く含まれています。彼らを輩出した文化的土壌が江戸期を通じて醸成されていたといえます。
 例えば江戸時代の日本は、寺子屋制度の発達で庶民の就学率、識字率は極めて高いものでした。嘉永年間(1850年頃)の江戸の就学率は70~86%に対し、当時のイギリスの大工業都市での就学率は20~25%だったと推測されています。
 識字率では幕末期武士階級はほぼ100%が読み書きできたと考えられ、庶民でも男子で49~54%、女子では19~21%という推定値があります。19世紀中葉のイギリス最盛期のヴィクトリア時代でさえ、ロンドンの下層階級の識字率は10%程度だったといわれます。

- 能力主義による人材登用を大胆に実施 -
 幕末維新を経て明治政府が確立する過程では、能力主義による人材登用が積極的に行われました。長州藩の下級武士だった伊藤博文は45歳の若さで内閣総理大臣となりましたが、未だに最若年総理の記録は破られていません。
 明治期に青年期を過ごした若槻礼次郎、田中義一、浜口雄幸らは昭和初期に総理大臣となりますが、いずれも武士階級では「軽輩」の出身で、明治以前では考えられない人材登用です。また、勝海舟や最後まで明治政府に抵抗して戦った榎本武揚、大鳥圭介、林薫ら旧幕臣を政府の枢要ポストに起用したのも、能力主義の表れといえます。
 さらに女子教育者の津田梅子や山川捨松、音楽教育家の永井繁子ら女性活躍の先駆者たちが、岩倉使節団とともに渡米し留学したことは特筆されます。こうした明治維新の革新的ともいえる適材適所の人材登用が大胆に実行されたことで、日本の近代化に向けて多くの有為な人材が能力を発揮することができました。
今年は明治改元から150年 - 「文明は挑戦に対する応答から生まれる」-
 英国の歴史学者アーノルド・トインビーは「歴史と研究」の中で、「文明は挑戦(チャレンジ)に対する応答(レスポンス)から生まれる。応答できなくなったとき文明は滅ぶ」と述べています。文明は外からの圧力や刺激、困難に立ち向かう中から興るものだというのです。
 日本は歴史的に三度海外から圧倒的な文明の挑戦を受けたといえます。最初は漢字や仏教、律令制などに代表される古代の圧倒的な中国からの文明の流入でした。しかし日本は宦官(去勢された男子の宮廷使用人)や科挙(官吏登用試験)の制度は取り入れず、大伴家持は日本人の精神を守るため万葉仮名で万葉集を編纂(8世紀後半)し、日本文明の独自性を示しました。
 そして二番目が明治維新の開国で怒涛のように押し寄せる西洋文明でした。日本は圧倒的な西洋文明の挑戦を受けましたが、「和魂洋才」の言葉に象徴されるように見事に応答し、西洋文明に飲み込まれることなく、伝統的な日本文化を守りつつアジア唯一の西洋的近代国家を築いていきました。

- 明治維新150年を機に歴史と文化が変わる -
 三度目は第二次大戦後のアメリカ文明の挑戦です。敗戦で打ちひしがれた日本は荒廃し、米軍を中心とした連合国軍の占領下に置かれました。以来日本は政治、経済、教育、芸術、社会生活のあらゆる分野で、アメリカ文明を受容してきました。
 戦後70数年を経た今日、日本は優れた品質と先端技術を駆使した「モノづくり」を世界に誇ってきましたが、世界の新たな挑戦に立派に応答できているでしょうか。明治維新150年を機に、明治という時代を振り返りつつ改めて歴史と文明を考えてみましょう。
【「文明開化の立役者は明治翻訳語」】
- 明治の和製漢語が中国の近代化に貢献 -
 明治に入って西洋の思想、政治、経済や文物の用語を正確に理解する必要から、「和製漢語」と呼ばれる明治の翻訳語が多く生まれました。
 明治翻訳語は大きく三つに分類されます。まず一つは日本語にない西洋語の概念を表すために造語した「新造語」です。個人、哲学、科学、時間、彼女などが代表的です。次いで、中国にいた欧米人宣教師が中国語に翻訳したものを借用した「借用語」で、冒険、恋愛、電報などがそうです。さらに類似の日本語に新しい意味を付加して転用した「転用語」があります。世紀、常識、家庭、衛星、印象、権利などがあげられます。
 日清戦争(1814~1815年)後に、清国は多くの留学生を日本に派遣しましたが、中国人留学生は日本の書物を中国語に翻訳し、日本で定着した「和製漢語」が中国に逆輸入されました。中華人民共和国の「人民」や「共和国」は和製漢語です。中国語になった代表的な和製漢語に、意識、右翼、左翼、運動、階級、共産主義、進化、失恋、接吻、唯物論などがあります。和製漢語は中国の近代化にも大いに貢献したようです。
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