「ただ、生きたい」と願った日々―【社会】

「ただ、生きたい」と願った日々―


 戦争が終わった、1945年8月15日。あの日を境に、もうひとつの戦争が始まったことを知っていますか?誰かと戦うでもなく、逃げ続ける日々、ただただ、故郷に帰ることを望み続け、寒さに耐える日々があったことを、あなたは想像できますか?
 1年2カ月に及ぶ、満州からの引揚げ生活を体験された、女優・赤木春恵さんの言葉から、当時を振り返り、平和について考えてみましょう。

「ただ、生きたい」と願った日々― - 語られない、もうひとつの"戦争" -
 「とにかく、えんえんと歩かされました。炎天下を歩いて歩いて......。子どもをおぶっている人も、病気の人も、みんなです。昼間は灼熱の日射しに焼かれ、夜は凍えるほど寒い。あの辛さ苦しさは、とても言葉では説明できません。
 亡くなった子どもを川に流したとか、死なせてしまうよりはと中国人に預けてきたとか、そんな話がいくらもありました。
(角川書店『昭和二十年夏、女たちの戦争』より一部抜粋)」
 満州からの引揚げを体験された、女優・赤木春恵さんは、1年2カ月に及ぶ自身の引揚げの体験を、書籍の中でこのように表現されています。
 赤木さんは、1945年の2月、日本が終戦を迎えるわずか半年前に満州に渡ります。空襲や食糧難、厳しい言論統制などが続く内地での生活を避けるためです。広大な土地、空襲もない満州―。満州が、天国のように謡われていた時代でした。
 ところが、終戦直前の1945年8月8日、ソ連が対日宣戦を布告、9日未明、満州に侵攻。当時満州にいた日本人の多くが、何が起こったのかわからないまま、8月15日以降も逃げ続けることになったのです。
 当時、満州には約155万人に及ぶ日本人がいました。ところが、終戦後、日本に帰ってこられたのは、約105万人。引揚げの途中で殺された人、あまりに過酷な引揚げ生活の中で衰弱して命を落とした人、外壁や屋根のないか無蓋貨罪と呼ばれる列車に乗って逃げる際、振り落とされたり乗り遅れたりして帰るすべを失った人、敵兵からの乱暴を恐れて自害したり自分の家族によって命を絶たれた女性......多くの日本人が、目指す祖国にたどり着くことができませんでした。
 生きて帰ってこられた赤木さんも、右に逃げたから助かって、左に逃げていれば銃弾に当たって死んでしまう、それくらい、死が隣り合わせの毎目だった―ただ、生きたい。―その一心だったと、当時を振り返ります。これはすべて、「戦後」の話です。

- 決して忘れないですもん。戦争を。 -
 赤木さんはこれまで、家族にさえも、当時の体験をあまり話してきませんでした。当時の記憶を、思い出したくないからです。それでも、ふとした瞬間に、今現実に目の前で起こっている小さなことが昔の記憶とつながって、トラウマのように思い出されることがあるのだそうです。そんな時、赤木さんの脳裏には、どんな記憶がよぎっているのか。やはり、想像を超えるものなのでしょう。
 ですが、86歳になられた今、生存する体験者として、やはりあの労苦を伝え残していかなければいけないのかもしれないという思いもまた、抱えられています。辛く苦しい戦争を経験し、生き抜いて、ようやく平和な日にたどり着いてなお、その記憶を語り継ぐ責任、生き続けることへの責任を感じて過ごす日々。戦争体験者の多くが、訴事を背負って生きているのです。
 戦後65年。戦争を背負って生きた、この65年間、赤木さんが思い続けてきたこと。それは、平和への祈念です。
 「戦争にならなければいい、戦争にならなければいいという願いね。ただただ、平和に対する祈念ですね。祈りです。平和に対する祈りは片時も頭から離れません。平和であってほしいんです。」そう話す赤木さんの両手は、膝の上で、ぎゅっと強く握られていました。
 戦争を知らない世代の人たちにも、戦争に対する少しの不安を持っていてほしいと赤木さんは話します。「今は豊かですからね。豊かだけれど、私たち戦争体験者にすれば、一抹の不安というのはいつもいつも、途切れずに持っているんです。孫の時代になって、どういう風に世界が変わっていくだろうか。もっと安らかな平和な時代になっていけるんだろうか。それとももっと、核の問題のように、いろんな問題がでてくるのかしらとかね。そういう風に今の年寄りはものすごく気にかけながら生きていると思うんですよね。決して忘れないですもん、戦争を。戦争体験者はね。」

- 平和の祈り -
 自分の命、白分の生き方、信ずべき情報。何から何まで自由に選ぶことができなかったあの時代。そして、選ぶ自由を手にした今、私たちが住む社会は、「平和」と言えるでしょうか。些細な理由で身近な人を殺したり、自らの命を絶つようなニュースを耳にするたび、赤木さんは、平和が当たり前になりすぎて感謝できない人が増えているようで、恐ろしく感じるといいます。―自分が生きていくことに対して、切実な思いを持ち、人を恨んだり、憎しみをもつのではなく、自分自身に自問自答して、目標をもって生きてほしい―これが、自由に生きられなかった時代、とにかく「生きる」ことが目様だった時代を生き抜いてきた赤木さんの思いです。

- 私たちできること -
 赤木さんの言葉は、常に前を向いていました。誰かを憎むような言葉は一度もありませんでした。赤木さんの言葉にあったのは、「生きる」こと、を大切にしてほしい、という願い。命への感謝。生きることへの喜び。そのことに尽きていたように思います。
 私たちの知らない戦争が、まだまだたくさんあります。そのすべてを知ることも、その本当の苦しみを今の時代を生きる人たちが知ることも、不可能でしょう。
 しかし、戦争体験者の方々がそうであるように、私たちは、平和を祈ることができます。戦争体験者の方々がそうであるように、平炉な世界が当たり前ではないことを意識することができます。戦争や争いのない世界を強く望み、生きることに、感謝できるのです。

◇「引揚げの労苦」については、後世に伝えるために平和祈念展示資料館(東京・新宿区)で展示・紹介されています。
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