「就活」の歴史をたどってみよう【社会】

「就活」の歴史をたどってみよう


 毎年のように変化する就職活動、いわゆる「就活」の解禁・内定の日程が変わることで、職を求める多くの学生が振り回されています。サラリーマンが誕生して以来、約100年の就職活動の歴史を振り返ってみましょう。いつの時代も学生たちは社会情勢や経済事情などで大変だったことがよく分かります。皆さんも近い将来就職活動を行うと思います。参考にしていただければ幸いです。

「就活」の歴史をたどってみよう - 第一次世界大戦と「サラリーマン」の誕生 -
 日本の「就活」がその第一歩を踏み出すきっかけとなったのが、1914年に起った第一次世界大戦です。第一次世界大戦による未曾有の好況で人手が不足した各企業が、大卒者の定期採用を始めたからです。 1918年に大学令が公布され、慶応義塾・中央大学など私立の高等教育機関が、正式に帝国大学と同列の大学として文部省(現文部科学省)に認可されたことで大卒者の数は急増します。大卒者の多くは、現在に続く「新卒一括採用」制度のもとで、終身雇用と年功序列の給与制度が保障された「サラリーマン」として生きていくことになりました。
 大卒者が企業に入社してホワイトカラーの事務職に就く一方、好況を支えた工場労働者の多くは、明治期と同様に「渡り職工」として工場を転々としていました。
 しかし、企業側はより安定した労働者の供給源を確保するため、各工場内に「職工学校」を設置しました。高等小学校を卒業したばかりの14歳程度の子供たちを入学させ、教育・訓練を施して技能労働者に養成し、卒業後、工場で雇用するシステムを確立しました。
 ところが、第一次世界大戦が終わり、1920年に戦後不況が始まると大卒者・工場労働者を問わず深刻な就職難が訪れました。各大学は就職部を設置し、学生の就職斡旋に乗り出しますが状況は改善しませんでした。戦前の学校教育制度では、大学まで進学する男性(この時期女性の大学進学は認められていませんでした)は100人に1人程度でした。貴重な存在であった大卒者の就職も厳しい状況に置かれていました。
 他の高等教育機関に進学していない大多数の若者も同様でした。このために就職の斡旋を行う、「職業紹介法」が1921年に制定され、各地に職業紹介所が設置されました。現在のハローワークの原型です。
 職業紹介所は各小学校と緊密に連携して就職斡旋に乗り出し、小学校卒業者を一斉に新たな職場に送り出すシステムを確立します。学校を卒業したら自動的に職場に入る、これもまた「新卒一括採用」の一つの形でした。

- 「大学は出たけれど」就職難の時代 -
 1927年の金融恐慌に続いて、1929年にアメリカで端を発した世界恐慌は、世界経済に図りしれない打撃を与え、史上かつてない就職難の時代がやってきました。この当時、大卒者の就職率は30%程度でした。このような状況下で、大学生は勉強よりも就職活動に力を注ぎ、学業が疎かになっていきました。これを危惧した大学側は1928年、大企業に対して入社試験を大学卒業後に行うよう求める通達を出します。1996年に廃止される「就職協定」の先駆けとなったこの通達はわずか1年しか続かず、また翌年からは学生たちは学業よりも就職活動に奔走することになりました。これを危惧した大学側は1928年、大企業に対して入社試験を大学卒業後に行うよう求める通達を出します。1996年に廃止される「就職協定」の先駆けとなったこの通達はわずか1年しか続かず、また翌年からは学生たちは学業よりも就職活動に奔走することになりました。
 この時代の世相を最もよく切り取っているのが、のちに「東京物語」などで知られている映画監督の小津安二郎が、1929年に製作した映画「大学は出たけれど」です。
 そのあらすじは、就職が決まらない主人公が就職の申し込みに大企業に出かけたところ「受付の仕事なら空きがあるが」と言われてプライドを傷つけられ、憤然として就職を断ります。しかし、生活費にも事欠くさまで妻が女給(今でいうホステス)として働きに出たことで、自らのプライドの高さが仕事を遠ざけていたことを反省し、あらためて受付の仕事からキャリアをスタートさせていくという話です。
 大学進学率が50%を超える今では想像もつきませんが、大学卒業者が企業の受付をすることは最底辺の仕事だと思われていたのです。

- 国家に奉仕総力戦体制下での就職 -
 1931年に起きた満洲事変で軍需産業の増強を急務とした日本は、「V字回復」と呼ばれるように世界恐慌から最も早く経済的回復を遂げました。それに伴い、大卒者も工場労働者も求人数が激増していきます。特に軍需産業の担い手となった理工系の学生への求人が殺到しました。
 1938年、日中戦争が全面化の様相を呈すると、政府は国家総動員法を制定して全ての国民を戦争遂行のために動員していきます。新規就職者も例外ではありませんでした。
 この年に制定された「学校卒業者使用制限令」は、工業系学校を卒業した学生の採用を厚生大臣による許可制にしました。軍需産業の担い手として重要視された工業系学校の卒業者は、自らの希望とは異なる職場であっても、国の命令に従って就職しなければならなかったのです。
 さらに、1941年に制定された「労務調整令」は、国民学校(小学校)を卒業した新規就職者は、すべて国民職業指導所(以前の職業紹介所)経由の就職しかできませんでした。このように、すべての新規就職者は、総力戦体制下、戦争遂行に動員されたのです。

- 戦後の就職難労働力が急激に増加 -
 戦後、戦地からの引き揚げ者で労働力が増大し、新規就職者―とくに大学卒業者―の就職率は著しく低下しました。
 この就職難を抜け出そうと、勉強そっちのけで就職活動に奔走する学生に頭を抱えた大学側は、1952年に、文部省と相談して、「大学が企業からの採用申し込みを受け付け、企業に就職希望学生を推薦するのは10月1日以降とする」という通達を出しました。
 この背景には、翌1953年に戦後各地に設立された新制大学の初めての卒業生が就職を控えていたという事情もありました。
 新規大卒求職者の数が激増することで、さらに就職難に拍車がかかります。採用の際に最も重視されたのは大学時代の学業成績でした。大学側は学業成績に応じて求人があった企業に推薦する「一人一社制」を本格的に導入して、学生の就職先を確保しようとしていました。
 高校や大学への進学がまだ一般的ではなかったこの当時、最も多くの新規就職者を社会に送り出したのは中学校でした。中学校は職業安定所との緊密な協力のもと、「一人一社制」の原則に基づき、卒業直後の4月1日からそれぞれの職場に就職できるように、きめこまやかな指導を行っていました。
 このような「学校から職場への直結」は、戦時期の「労務調整令」を引き継いだものであるといえるでしょう。中学生の就職に限っては、戦時期に生まれた制度が戦後にも影響を及ぼしていたのです。
「就活」の歴史をたどってみよう - 高度経済成長と人手不足就職産業の興隆 -
 1956年に内閣府が発行した『経済白書』に「もはや戦後ではない」と記されたように、1955年から始まった日本の高度経済成長で大卒者の求人数は激増しました。このため、企業側が就職協定を破って早期に採用予定の学生を囲い込む「青田買い」が横行し、1962年には早くも就職協定は放棄されることになりました。
 また、大学を経由せずに就職先を見つけるルートも、高度経済成長が本格化した1960年代半ばから広がっていきます。その先鞭をつけたのが、「リクルート」の創業者である江副浩正でした。江副は大学生向けの就職情報誌を創刊し、誌面に求人をのせた企業と学生が直接接触するという、現在の就職サイトにつながる新たなビジネススタイルを考案したのです。
 一方、中学生・高校生の就職は、以前と変わらず学校や職業安定所の斡旋によるものが殆どでした。特に高度経済成長を支えたのが、中学校を卒業してすぐに職に就く「金の卵」たちでした。彼ら彼女らは、東北や九州から「集団就職列車」で企業が集中する首都圏や近畿圏に向かい、中小の工場や商店に住み込んで働きました。大卒者にばかり目が向きがちですが、「金の卵」こそが日本の驚異的な高度経済成長を支えた存在だったことを忘れてはならないでしょう。
「就活」の歴史をたどってみよう - バブル経済の終焉「就職協定」の廃止 -
  1972年、過度な「青田買い」に危機感を抱いた企業と大学は、ふたたび「就職協定」を結び、「5月1日求人活動解禁・7月1日選考解禁」と就職活動開始の日程を決定しました。しかし、翌1973年にオイル・ショックが勃発したことで、日本の高度経済成長は終わりを告げ、新規求職者は激しい就職難にさらされることになりました。企業が学生を厳しく選別する「買い手市場」の時代になったのです。
 1980年代半ばからは、バブル経済と呼ばれる好景気が続き、新規求職者はこれまでとは逆に各企業から引き手あまたの「売り手市場」の時代を迎えます。もはや「就職協定」は機能していないに等しく、有名大学の学生は3年生の時点で企業から「内々定」をもらうことすらありました。
 しかし、1991年から93年にかけてバブル経済が崩壊するにつれて、企業は経済活動を縮小し、新規求職者にとっては「就職氷河期」と呼ばれる厳しい時代が続きます。1996年には「就職協定」も廃止され、それにかわり「倫理憲章」が就職活動の日程を規定していくことになりました。しかし、「倫理憲章」に罰則規定がないため、外資系企業などは激しい自由競争のもとで優秀な人材の確保に乗り出しました。そのため、毎年のように就職活動開始の日程が変わり混乱を来しています。
 現在は、景気も回復しつつあり、大卒者の就職率は改善される傾向にあります。けれども、1990年代半ばから2000年代半ばにかけての長い「就職氷河期」の時代に、学校を卒業して正社員になれず、派遣社員や契約社員といった雇用形態で働く人々の救済は進んでいません。「新卒一括採用」制度のもと、卒業した年によって就職の有利不利が決まるような現状は、就活のスタートラインとして平等だとはいえません。
 アメリカなど諸外国では、大学を卒業したあと、インターンシップなどを経て就職するのが一般的です。もちろん「新卒一括採用」には利点がありますが、海外との交換留学も盛んになってきた現在、人材の多様性を確保するためにも「新卒一括採用」にこだわらず、さまざまなルートで就職が行えるようにしていく必要があるでしょう。
バナー
デジタル新聞

企画特集

注目の職業特集

  • 歯科技工士
    歯科技工士 歯科技工士はこんな人 歯の治療に使う義歯などを作ったり加工や修理な
  • 歯科衛生士
    歯科衛生士 歯科衛生士はこんな人 歯科医師の診療の補助や歯科保険指導をする仕事
  • 診療放射線技師
    診療放射線技師 診療放射線技師はこんな人 治療やレントゲン撮影など医療目的の放射線
  • 臨床工学技士
    臨床工学技士 臨床工学技士はこんな人 病院で使われる高度な医療機器の操作や点検・

[PR] イチオシ情報

媒体資料・広告掲載について