オリンピック・万博と「文化」【文化】

オリンピック・万博と「文化」


【クール・ジャパンの出発点】
 今年7月から8月にかけて、東京をはじめ各地の競技会場でオリンピックが開催されます。また2025年には大阪で万博の開催も予定されており、2020年代の日本では国家規模でのイベントが目白押しです。オリンピックと万博の開催が続くのは、1964年の東京オリンピック、70年の大阪万博以来のことで、当時の日本は空前の好景気のもとで新しい文化を誕生させました。今回のオリンピック・万博の開催で、日本はどのような文化を生み出すでしょうか。半世紀前に生まれたさまざまな文化を手がかりに、新たな時代を想像してみませんか。

オリンピック・万博と「文化」 - 「昭和元禄」 -
 1964年4月、半年後に日本初のオリンピック開催を控えた日本は「オリンピック景気」にわき、海外への観光旅行の自由化が実現するなど、国民生活にも豊かさが実感できるようになりました。6月には、当時の福田赳夫自民党幹事長が、このような状況を「所得倍増や高度成長政策の結果、社会の動きは物質至上主義が全面をおおい、レジャー、バカンス、その日暮らしの無責任、無気力が国民の間に充満し、元禄調の世相が日本を支配している」と批判し、ここから「昭和元禄」という造語が世相を表す言葉として流行します。
 徳川幕府5代将軍・綱吉の治世と重なる元禄年間(1688~1704)は、商業が著しく発展した時代です。日本の商業の中心であった上方(京都・大坂)では、豊かさを享受する町人が元禄文化を発展させ、人形浄瑠璃や歌舞伎をはじめ、松尾芭蕉らの俳諧、井原西鶴らの小説、浮世絵などが流行します。経済的豊かさに裏打ちされた華やかな元禄文化の隆盛に、福田幹事長は高度経済成長とオリンピックにわく世相を重ね合わせたのです。
 実際には、オリンピック閉幕後の日本経済は急速に縮小して、1965年11月には戦後初の赤字国債の発行を決定しました。これ以降、経済は回復して70年まで「いざなぎ景気」が続きます。国民総生産は西側諸国で第2位となり、1966年には総人口が1億人に達して大国となりつつあった日本では、経済発展に伴って戦後生まれの若者が新しい文化を生み出していきます。
オリンピック・万博と「文化」 - 若者文化の発信源 -
 当時の喫茶店は、若者文化の発信源でした。エレキバンドの生演奏で客がゴーゴーダンスを踊るゴーゴー喫茶は、エレキギターが大流行した1965年頃に誕生しました。ベンチャーズやビートルズなどの海外のグループに影響を受けて生まれたグループ・サウンズ(GS)ブームのもと、1960年代末にかけて大流行しました。
 コーヒーを飲みながらジャズの演奏に耳を傾けるジャズ喫茶は、GSに飽き足らない若者を引きつけました。70年前後からは、それまでのグループ・サウンズにかわり、社会的なメッセージ性の強いフォークソングや、海外でのロック・ミュージックの隆盛に影響を受けたロックやポップスが流行し、ロック喫茶も生まれました。
 ラジオの深夜放送の代名詞のようにいわれる「オールナイト・ニッポン」の放送開始は1967年10月です。中高生や大学生をターゲットとして、テレビでは流れないロックやフォークなど新しい音楽をふんだんに流した「オールナイト・ニッポン」は、若者文化を象徴していきます。
 続く10月18日、羽田空港に降り立ったイギリス人モデル・ツイッギーは、若い女性のファッションを一変させます。ツイッギーが「小枝」を意味したように、華奢な体にツイッギーがまとった膝上のミニスカートは、若い女性に熱狂的に受け入れられました。ミニスカートにサングラス、ロングヘアは1960年代後半の女性に大流行しました。
 1970年3月には、女性ファッション誌『an・an』が創刊されます。それまでのファッション誌が洋服を自分で作ることを前提としたのに対し、『an・an』は国内外の最新ファッションを紹介して、既製服を店頭で買う文化を日本に根付かせていきます。また、ヒッピー・ムーブメントの影響でジーンズが男女を問わず日常的に着用されるようになり、男性の長髪も若者の間で流行しました。このような若者文化を象徴する出来事が、1969年8月に岐阜県中津川で開催された「全日本フォークジャンボリー」です。日本初の野外音楽フェスとなったこの会場には、3000人近くの若者が集まりました。
オリンピック・万博と「文化」 - サブカルチャーの拠点・新宿 -
 関東大震災後に繁華街として発展した新宿は、1960年代の若者文化の発信地となり、多くの若者が新宿をめざしました。新宿には、1950年代後半のフランスで生まれたヌーベルヴァーグ(「新しい波」を意味する映画運動)を上映する映画館や、それまでの新劇や商業演劇とは一線を画したアングラ演劇の劇場、多くのジャズ喫茶が集中していたからです。現在も人気のある寺山修司、唐十郎、蜷川幸雄らはアングラ演劇の旗手として知られていました。
 交通の要衝新宿駅は、ベトナム戦争の際には在日アメリカ軍の立川基地にジェット燃料を輸送する貨物列車が通過していました。1967年8月8日午前1時過ぎ、新宿駅構内でジェット燃料を積んだ貨物列車に別の貨物列車が衝突して炎上し、中央線が丸1日運休する事態も起きました。68年10月21日には、新宿駅構内でベトナム戦争反対を訴える若者が暴徒化して駅構内を破壊し、700名以上が逮捕される新宿騒乱も起きています。
 また69年春には新宿駅西口地下広場で反戦フォークソングを歌う若者の集団が現れました。最初は30人程度だったのが、最盛期には学生やサラリーマンら7000人が集結し、見知らぬ人同士が肩を組んで反戦フォークソングを歌うようになりました。このように60年代後半の新宿は、若者文化と世界的なベトナム反戦運動とが交錯する場となっていましたが、70年代に入ると、新宿にかわり原宿が新たな若者文化の発信地となっていきます。
オリンピック・万博と「文化」 - 「カワイイ」の発信地・原宿 -
 もともと静かな住宅街だった原宿の隣には、戦前に日本陸軍の代々木練兵場がありました。戦後、代々木練兵場はアメリカ軍に接収され、アメリカ軍の将校やその家族が暮らす「ワシントンハイツ」となって1961年まで使用されていました。原宿にはワシントンハイツに暮らす外国人に向けた店舗が並び、日本では入手が難しい洋服や小物、食品を手にすることができました。
 東京オリンピックの選手村として利用するために、ワシントンハイツが日本に返還されたのちも、海外の流行の最先端を追う若いデザイナーやクリエーターらは続々と原宿に集まり、ブティックやセレクトショップで自身の作品を販売しはじめました。日本初のファッションブランドとして名高いコム・デ・ギャルソンも原宿で誕生しています。
 ファッションの街原宿には、カメラマンやアートディレクター、コピーライターなど、70年代以降の消費文化をリードする人びとも多く集まり、流行の最先端を行く場となっていきます。休日の原宿は歩行者天国となり、70年代の終わりには派手な原色ファッションに身を包み、ディスコミュージックにあわせて歩行者天国で踊る「竹の子族」が現れます。80年代に入ると、アイドルやタレントの店が並ぶようになった原宿は、中高生の修学旅行先としても人気となり、現在では多くの外国人観光客が、日本の「カワイイ」ポップカルチャーを求めて足を運んでいます。
オリンピック・万博と「文化」 【1960年代後半の世界と日本―ベトナム戦争の時代】
 1960年代後半は、世界的に戦後生まれの若者が新しい文化を生み出した時代でしたが、そのような時代背景には、泥沼化するベトナム戦争がありました。フランスの植民地であったベトナムは、第2次世界大戦中に日本軍が占領しましたが、敗戦後は独立を目指してフランスと戦い(インドシナ戦争、1946~54年)、北緯17度線より北をホー・チ・ミン率いるベトナム民主共和国(北ベトナム)が、南をアメリカが支援するベトナム共和国(南ベトナム)が統治することになります。しかし社会主義を掲げる北ベトナムと対立するアメリカは、1965年2月北ベトナムへの攻撃を開始し(北爆)、以降1975年までベトナム戦争が続いたのです。
 世界各地でアメリカの北爆への抗議運動がはじまり、アメリカでも1968年には半数以上の人がベトナム戦争に反対するようになるなど、ベトナム戦争への反戦運動は世界的規模で空前の盛り上がりを見せ、日本でも「ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)」などのグループや個人が反戦運動に参加しました。
 1968年は、ベトナム反戦運動の高揚と軌を一にして、世界各地で同時多発的に生じた若者の〈叛乱〉の年として記憶されます。アメリカでは4月にアメリカ公民権運動のリーダーであったキング牧師が暗殺されて全土で大規模な人種暴動が起き、東部の名門コロンビア大学ではベトナム戦争に協力する大学当局を批判する学生が大学の封鎖を実行します。フランスでは大学制度の改革を訴える学生と警官隊の衝突をきっかけに全土で反政府運動が起き(5月革命)、多くの知識人・文化人もこれに呼応してフランスの国家機能は麻痺しました。8月には社会主義国のチェコスロバキアでの民主化運動(プラハの春)がはじまり、中国は社会主義文化の創造を目指す文化大革命のさなかにありました。日本でも各地の大学で学生らが大学運営の改善などを求める大学紛争が激化し、1969年1月に予定された東大入試は中止されました。
 こうした〈叛乱〉は、世界各地で若者文化を生み出す原動力となりました。とくにアメリカでは、既成社会の伝統や規範を打ち破ろうとするヒッピー・ムーブメントがひろがり、ここからジーンズスタイル、チューリップハットなどのファッションや、男性の長髪がファッションとして世界中の若者に受け入れられます。また、1969年8月15~17日には、アメリカでウッドストック・ロック・フェスティバルが行われ、40万人が集まりました。会場では、反戦フォークソングの象徴的存在であった女性歌手ジョーン・バエズが「WE SHALL OVER COME」を歌うなど、ウッドストックはベトナム反戦と自由と平和を訴える場となりました。
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