公害が引き起こした 悲しい歴史が【環境】

公害が引き起こした 悲しい歴史が

 日本は、気候変動枠組条約締結国会議などの国際会議で、地球環境保全に向けて積極的な発言をおこなっています。
 しかし、1950年代後半から始まった高度経済成長期は、豊かさと深刻化する環境汚染の狭間で苦しんだ時代でもありました。いわゆる「4大公害病」が発生し、半世紀以上が経過した今日でも、まだ多くの被害者が後遺症に悩んでいます。公害の原点といわれる水俣病の未認定患者と国、原因企業との和解が成立したのが2010年3月で、公式に認定されてから54年が経過しています。

公害が引き起こした 悲しい歴史が - 汚染列島ともいわれた時代 - 
 日本の高度経済成長期、1950年代後半から70年にかけて日本の重化学工業化が急激に進み、人々は大量生産・大量消費の時代を謳歌しました。
 しかし、海や川に工場廃水や生活排水がそのまま流され、悪臭が立ち込めて立ち寄ることもできません。水面はプランクトンの異常増殖による赤潮、海底には有機物を含むヘドロなどがたまり、死の海と呼ばれる事さえありました。もちろん、海や川に住む生物が激減したことは言うまでもありません。
 さらに、重化学工業地帯に林立する煙突から、終日モクモクと窒素酸化物などを含む煙が立ち込めました。都心部でも、急激に普及する自動車の排気ガスなどで汚染され、空はスモッグで覆われるようになりました。工場の煙や自動車の排気ガスに含まれる窒素酸化物と炭化水素が太陽の紫外線の影響で光化学反応を起こし、それによって生成される有害な光化学オキシダント(光化学スモッグ)による被害も頻発しました。
 このように、多くの人が被害を受けるにもかかわらず、その原因を特定できない汚染や、因果関係がはっきりしないけれども被害が発生する汚染を「公害」と呼ぶようになりました。

- 歴史に残る4大公害病が発生 - 
 1950年代後半から、日本各地で環境汚染が進みますが、当時は煙突を高くすれば排煙は拡散するだろうと考えて煙突は高くなりました。工業排水も大量の水と一緒に排水すれば、汚染は薄まるだろうと考えられていたのです。現在では信じられないようなことが行われていました。
 汚染物質排出源の周辺に住む人々も、環境汚染が原因となる疾病に理解が浅く、体調が悪化するまで軽視していました。環境汚染に対する無理解、軽視が1950~1960年代にかけて未曾有の公害病を発生させ、重大な被害を続出させたのです。4大公害病と呼ばれる「水俣病」「イタイイタイ病」「四日市ぜん息」「新潟水俣病」は、こうした社会背景のもとに発生したのです。
 発生当時、環境汚染に対する認識の浅さなどで原因究明に長い時間が経過しました。この結果、多くの患者は十分な医療措置を施されることなく放置され、命を落とした人も少なくありません。さらに、原因企業の認定などに手間取り、被害者に対する損害賠償交渉は約半世紀という長期に及ぶことになったのです。
 今日、日本はこうした苦い歴史を踏まえて環境汚染防止技術を向上させ、環境汚染に苦しむ世界の国々へ提供できるようになったのです。

- 熊本県水俣市で発生した「水俣病」 -
 水俣市のチッソ附属病院に1956年4月、言葉がはっきりとせず、手足がしびれ、意識が朦朧とした少女が運び込まれました。病院長が「原因不明の中枢神経疾患が多発している」と水俣保健所に報告し、これが水俣病の最初の確認となりました。
 この患者が住む水俣湾周辺の漁村に、同様の症状を示す患者が集中していることから「水俣病」と呼ばれるようになりました。この時点では、まだ原因が解明されず奇病として扱われていました。多くの患者は伝染病の一種ではないかと疑われるなど、病気と差別に苦しみました。
 水俣市はただちに保健所や医師会、市立病院、チッソ附属病院などで「水俣市奇病対策委員会」を設置し、対策に乗り出しました。8月になると、熊本大学医学部に原因究明を依頼し、本格的な調査が始まりました。

- 原因は工場廃液に含まれるメチル水銀 -
 熊本大学医学部の研究班は1957年、水俣湾周辺に患者が集中していることなどから、チッソ水俣工場の廃液があやしいと考え、工場廃液のサンプル提供を求めました。しかし、チッソは企業秘密などを理由に提供を拒みました。また、研究班は水俣湾の魚介類を多く食べた人が水俣病を発症しているため、水俣湾での漁獲禁止を厚生省に提案しました。しかし、厚生省に認められず、地元熊本県も極力食べないように指導するだけに終わりました。この時、適切な対策が取られていれば被害の拡大は防げたかも知れません。
 研究班は1959年、集めた資料などをもとにチッソ水俣工場の廃水に含まれている有機水銀(メチル水銀)が原因だと発表しました。しかし、化学業界寄りの学者などから反論が相次ぎ、政府も有機水銀が原因という結論は早計という態度を取り続けました。結局、チッソの工場廃液が原因という政府の見解が確定したのは、9年後の1968年のことです。
 国や県がチッソに弱腰だったのは、重化学工業の育成という当時の風潮とともに、水俣市がチッソの企業城下町だったことも大きく関係しています。

- 新潟でも「新潟水俣病」が発生 -
 熊本県で発生した水俣病の原因追究が進まない中、1964年に新潟県の阿賀野川河口に住む男性の漁民が、歩行障害・視野狭窄・言語障害など、熊本水俣病と同じ症状を訴えて新潟大学医学部付属病院に入院しました。新潟大学医学部で患者を検査した結果、毛髪などから高濃度の水銀を検出し、阿賀野川流域に他にも水俣病患者がいることを確認しました。
 阿賀野川汚染の原因は、昭和電工鹿瀬工場のアセトアルデヒドの製造過程で生じた有機水銀であることが突き止められました。チッソによる水俣湾の汚染と全く同じケースで、水俣で適切な対応を取らなかったことが悔やまれます。
 新潟水俣病で特筆すべきは、加害責任を認めなかった昭和電工に対し、新潟水俣病の患者が訴訟を起こし、患者側が勝訴したことです。これが4大公害裁判の最初の裁判で、後に続くイタイイタイ病・四日市ぜん息・水俣病裁判の勝利に大きな影響を及ぼしました。

- わずかな動きでも骨折する「イタイイタイ病」 -
 大正時代から富山県神通川流域で、背骨など身体の各所が骨折し、わずかな動きで全身に痛みが走るという発症者が確認されていました。原因は科学的に解明されず、風土病や伝染病の一種と見なされてきました。
 富山県の萩野病院の萩野院長は1961年、神通川の水を田んぼに引き込んだり、飲料水に利用している地域に発症者が集中していることから、上流にある三井金属鉱業神岡鉱山の廃水に含まれるカドミウムが原因であることを突き止めました。
 カドミウムが体内に入ると、カルシウムと置き換わって腎臓障害を起こし、次いで骨軟化症を発症して骨が折れやすくなります。ひどい時には、ちょっと咳をしただけでも骨折し、患者が「痛い」「痛い」と苦しむことから「イタイイタイ病」と名づけられました。
 イタイイタイ病が、公害病として認定されたのは1968年のこと。この間、三井金属は「カドミウム無害説」や「ビタミンDの欠乏」などを主張し、カドミウムとイタイイタイ病の因果関係を認めず、患者の救済は水俣病と同様に遅れることになりました。

- 巨大石油化学コンビナートと「四日市ぜん息」 -
 巨大なコンビナートから立ち上る煤煙で大気が汚染され、人間の生命までもが脅かされたのが三重県四日市の「四日市ぜん息」です。四日市市では、1957年ごろから石油の精製工場が次々に建設され、巨大石油化学コンビナートを形成していきました。さらに、水力発電から石油による火力発電への転換を図る中部電力、農薬などを生産する石原産業などが加わり、コンビナートは巨大化していきます。
 コンビナート周辺は、各工場の煙突から吐き出される粉じんや亜硫酸ガスで日常的に大気汚染が深刻になっていきました。なかでも、コンビナートと隣接する四日市市の磯部地区や塩浜地区では、1959年ごろからぜん息患者が急増し、「四日市ぜん息」と呼ばれるようになったのです。たまりかねた患者は、1967年にコンビナート内の6社を相手取り、これら企業による大気汚染がぜん息の原因だとして損害賠償を求める訴訟を行いました。
 これに対して6社は、各工場の排煙の大気汚染濃度は1962年の煤煙規制法の規制値以下だから違法ではないと主張しました。しかし1972年の判決で、亜硫酸ガス排出濃度が規制値以下であっても、大気汚染は6社の共同不正行為と見なし、原告の患者側が勝訴し、原告に加わらなかった患者も同じように救済されることになりました。
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