「原発ゼロ」が終わった【環境】

2011年3月の東京電力福島第1原子力発電所の事故以来、日本の原子力発電所は順次定期検査の時期を迎えて運転を停止し、そのまま運転再開が出来なくなっていました。それは、政府が新たに独立性の高い原子力規制委員会を設置し、これまでの基準に代わるより厳しい規制基準を設けたためです。
各電力会社は新しい規制基準に沿って安全対策などを強化し、これまでに25基の原発の再稼働を申請していました。そして8月11日、審査をクリアした九州電力・川内原発1号機が全国で初めて再稼働することになり、1年11か月続いた「原発ゼロ」の状態は終わりました。しかし、原発の再稼働について疑問や不安の声は少なくありません。今回の再稼働の意味や課題について考えてみました。
原子力発電所の再稼働まで

2011年3月に発生した東日本大震災で、東京電力福島第1原子力発電所が大きな被害を受けました。福島第1原発の原子炉は押し寄せた津波で電源が破壊され、中にあった核燃料が溶け出すという炉心溶融、いわゆるメルトダウンによって放射性物質が大気中に拡散しました。この事故で日本の原発では事故は起こらないという「安全神話」は崩れ、国民は原発に絶対安全はないと思い知らされました。
日本には福島第1原発を含め54基の原子炉があります。東日本大震災以降、福島第1原発は廃炉に向けての作業に入り、残る原子炉も順次定期検査の時期を迎えて運転を停止し、そのまま運転再開のメドが立っていません。従来の定期検査のままでは、福島第1原発のような事故を防止する保証が見込めないからです。そして2012年5月、日本の原子炉は全て運転を停止する「原発ゼロ」の状態になりました。
その後、政治判断で福井県の大飯原発が一時的に稼働しましたが2013年9月に停止しました。それ以来、1年11か月にわたって「原発ゼロ」の状態が続いていたのです。

二度と原発事故を起こさないため、国はこれまでの基準に代わる新しい規制基準の作成に取りかかりました。
新規制基準作成の中心的役割を担うのが「原子力規制委員会」です。
福島第1原発の事故の際、内閣府の原子力安全委員会、経済産業省の原子力安全・保安委員会、文部科学省の放射線モニタリング部門、独立行政法人原子力安全基盤機構などが対応しましたが、原発事故に適切に対応できませんでした。この反省を踏まえて2012年9月、環境省の外局として原子力規制委員会を発足させて行政組織を一元化させました。
原子力規制委員会は、政府や各電力会社の都合を配慮して規制が甘くならないように、従来よりも高い独立性を保っています。原子力規制委員会の構成メンバーは、委員長と委員4人の5名で構成されています。委員会の事務局に原子力規制庁を設置し、原発の検査などの実務を担当しています。

原子力規制委員会が作成した新規制基準は、2013年から施行されています。新基準では、原発事故の被害を最小限にするため、地震や津波などの対策を強く求めています。
例えば、原子炉建屋の補強工事や配管の強化、津波対策として防潮堤の強化やかさ上げ、電源喪失に対応できる電源車やポンプ車の配備、外部電力の多重化、放射性物質を閉じ込めるフィルター付きベント装置などの設置を求めています。また、活断層を見直して、直下にあれば運転を認めない方針です。
原発を再稼働させるには、原子力規制委員会の審査を通過し、地元の県や市町村の同意を得て初めて運転が可能になります。各電力会社は、新規制基準に沿った原発事故対策を進め、順次再稼働に向けて申請を行なってきました。現在までに各電力会社は25基の原子炉の再稼働を申請し、5基が新基準を満たすと認められました。
九州電力川内原発1号機は昨年9月に審査を通過し、地元の同意などを経て今年8月から再稼働となりました。
この他、関西電力高浜原発3、4号機、四国電力伊方原発3号機、川内原発2号機も新基準を満たしていると認定されました。
- 想定外の事故を懸念する声も -
新規制基準が施行された後も、原発に対して不安や疑問の声が寄せられています。
高浜原発3、4号機は新基準を満たすと認定されましたが、福井地方裁判所は今年4月に住民らの訴えを認めて運転を禁じる仮処分決定しました。裁判所の判断は「新基準は穏やかにすぎ、合理性を欠く」と指摘し、「新基準を満たしても安全性を確保されない」というものです。
新しい規制基準の施行で、原発の安全性が高まりましたが、ゼロになった訳ではありません。自然科学には限界があり、想定を超える自然災害に見舞われる可能性があります。再稼働した川内原発の周辺には桜島があり、再び噴火し始めた阿蘇山など多くの活火山が取り巻いています。いつ想定を上回る巨大噴火が起こるかも知れません。
このため、新しい知見に基づいて絶えず防災技術を高めていくという不断の努力が求められています。

新しい規制基準の策定で、原発の安全性は高まりましたが潜在的なリスクを払拭したとはいえません。それにも拘らず再稼働を急ぐのは、原発の停止で火力発電の燃料費が高騰し、電力会社の経営を圧迫しているためです。東日本大震災の発生以前、原発は総発電量の約30%を占めていました。中でも九州電力や関西電力の原発依存度は約40%と非常に高くなっていました。
政府も原発停止が長びき、電気料金の値上がりが景気全般に及ぼす悪影響を懸念しています。また、エネルギーの安全確保といった視点から、原子力、石油、LNG、新エネルギーなど多様な電源の確保が必要だとしています。さらに、国際社会から温室効果ガス削減を強く迫られている中、CO2を排出しない原発はクリーンな電源であると位置づけています。
- 2030年の原発比率は約20%に -
経済産業省は今年8月、将来の電源構想、いわゆる「エネルギーミックス」で、2030年の電源構成について、原発の比率を20~22%にするのが望ましいとする構成案をまとめました。
これを実現するには、30基前後の原発の稼働が必要になります。2030年には原則40年という運転期限を超える原発もあり、老朽化した原発の稼働延長が課題となります。
川内原発1号機が再稼働したことを受け、電力業界や各産業界では他の原発の再稼働に拍車がかかるのではとの期待が高まっています。しかし、高浜原発のように再稼働を認めない仮処分が出された原発や、敷地内に活断層の存在が指摘されている原発もあります。さらに、老朽化した原発を使い続けることに慎重な意見もあります。
このため、2030年の時点で30基程度を稼働させるという計画の実現性を疑問視する意見も少なくありません。
- 注目される核廃棄物処理問題 -
原子力発電は発電コストが安く、温室効果ガスの主因となるCO2の削減、さらに政情が不安定な中東に依存する石油からの脱却など多くのメリットがあります。
その一方、核廃棄物の処理問題がクローズアップされています。原子力発電と火力発電の仕組みは、蒸気でタービンを回して発電するため同じです。違いは火力発電では燃料に化石燃料を使っているのに対し、原子力発電ではウランを燃料にしていることです。原子力発電所の燃料となるウランは、稼働によって消費され廃棄されていきます。使用済み核燃料から出る廃棄物は、強い放射能を帯びているため何万年も地下深くに封じ込める必要があります。
国は核廃棄物の処分場の建設について、候補地の選定を急いでいますが適当な処分場が見つかっていません。使用済み核燃料の多くは原発の保管プールで管理されていますが、あと数年で満杯になる原発もあります。
これまで、原発については発電コスト、設備の安全性、地球環境問題、燃料の安定供給などについて議論され、核廃棄物処理は発電コストの一部として論じられてきました。しかし、蓄積され続ける核廃棄物の処理問題は先送りし続けることはできず、今後の大きな課題となっています。

- 1955年に原子力基本法が成立 -
日本の原子力開発の歴史を振り返りながら、原子力発電の歩みについて考えてみましょう。
終戦後、日本は連合国から原子力に関する研究が禁止されていました。しかし、1952年の講和条約が発効後に解禁されました。後に総理大臣となる中曽根氏などが1954年、原子力研究開発予算を国会に提出し、2億3500万円の予算を獲得しました。ウラン235にちなんだともいわれています。日本の原子力発電の研究がこの時からスタートしました。
1955年に原子力基本法が成立し、「民主的な運営」「情報の完全な公開」「自主性のある運営」という原子力研究三原則が打ち出されました。翌1956年、読売新聞社主でもあった正力松太郎氏を委員長とする原子力委員会が設置され、5年以内に採算の取れる原子力発電所建設を目指しました。原子力委員であった湯川秀樹氏は、委員会の閉鎖性などに不信感を募らせて委員を辞任しました。
- 研究の中枢を担う日本原子力研究所 -
1956年、濃縮ウランの受け入れ先として日本原子力研究所(原研)が設立され、研究所が茨城県東海村に設置されました。この東海村に建設された原子炉で1963年10月26日、日本で最初の原子力発電に成功し、「原子の火が灯った」と大きく報道されました。この日を記念して10月26日は原子力の日となっています。
一方、電気事業連合会加盟の9電力会社は、1957年に日本原子力発電株式会社(原電)を設立しました。原電は1966年、イギリス製の原子炉を使って電研と同じ東海村で運転を始めました。
- 過疎地に建設が進む原子力発電所 -
原発が認知されるにつれて原子力発電所をどこに作るか、どうすれば住民の納得が得られるのかが大きな問題になってきました。そこで誕生したのが「電源三法」です。1974年に成立した電源三法は、電源開発が行われる地域に対して補助金を交付し、建設を促そうというものです。
高度経済成長の真只中にあって若者は都市部をめざし、地方には過疎化現象が押し寄せていました。過疎地では、原発を誘致することで雇用が生まれ、公民館や体育館などの建設で活性化が期待できます。原発が立地している地域を見ると明らかなように、過疎地を中心に原発の建設が進んで行ったのです。
そして、東日本大震災の前には54基もの原発が全国各地に建設されました。しかし、事故を起こした福島第1原発の6基の廃炉が決まり、さらに老朽化した5基も廃炉となります。戦後、原子力発電は急速に発展しましたが、東日本大震災を機に大きな曲がり角を迎えたといえるでしょう。