広島カープの戦後史【スポーツ】

広島カープの戦後史


 プロ野球セ・リーグでは、広島東洋カープが25年ぶりのリーグ優勝を果たしました。原爆投下からわずか5年後、焼け野原の広島に生まれたカープは、市民球団としてさまざまな困難を乗り越えながら、復興を担う広島市民の心の支えであり続けました。60年以上にわたるカープの歴史を振り返りながら、プロスポーツと地域の関係を考えてみましょう。

広島カープの戦後史 - 広島カープの誕生 -
 1950年1月15日、広島ではじめてのプロ野球チーム・広島カープ(現・広島東洋カープ)の結団式が開かれました。広島は戦前から野球の人気が高い地域で、多くのプロ野球選手を輩出していました。そこで、1945年8月6日の原爆投下で壊滅的な打撃を受けた広島の街を元気づけようと、広島の政財界の主導により、広島カープの創設が決まったのです。
 球団名となったカープは、英語で「鯉」(CARP)を意味します。1589年に築城されて以来、長く広島のシンボルとしてあった広島城の別称「鯉城」と、滝を力強くのぼる鯉の姿に広島復興の希望を重ねて、新球団はカープと名付けられました。
 カープが創設された1950年には、大洋ホエールズ(現・横浜ベイスターズ)、国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)、毎日オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)、近鉄パールズ(現・オリックスバファローズ)、西鉄クリッパーズ(現・埼玉西武ライオンズ)の5球団も創設されました。
 これら5球団には、鉄道会社などの親会社がありましたが、広島財界の共同出資により創設されたカープに親会社はなかったため、カープは不安定な経営を強いられることになります。

- 「樽募金」で支えた市民 -
 最初のカープの本拠地球場となったのは、広島市郊外の観音にある県営総合球場です。その当時は、ナイター設備がないのはもちろん、観戦席とグラウンドをロープで区切っているほど粗末な球場でした。それでも、カープに希望をかける多くの市民が、連日県営総合球場に詰めかけ、カープの応援を続けました。日本プロ野球界でただひとり3000本安打を達成した広島生まれの元野球選手・張本勲(1940年生まれ)さんも、県営総合球場に通ってカープの試合を観戦していたそうです。
 しかし、親会社をもたないカープの収入源は不安定で、球団創設直後から資金難に苦しみました。創設2年目の1951年には、選手の給料が払えなくなり、球団解散のニュースも流れました。この危機を救ったのは、多くの広島市民でした。広島県庁や広島市役所に直接乗りこんで、カープへの財政支援を求めた市民もいましたし、球場の入り口に置かれた樽には、カープ存続のために、多くの市民が苦しい懐から寄付金を投げ入れました。この「樽募金」により当時の金額で400万円が集まったことで、カープは球団解散を回避することができたのです。
 1957年、中国地方ではじめてのナイター設備を備えた球場として、広島市民球場が誕生します。広島市民球場はその名の通り、広島市が所有する市民のための球場で、原爆ドームの北側の旧西練兵場跡に作られました。爆心直下の旧西練兵場では、原爆投下により多くの兵士や市民が亡くなっていました。原爆投下からの復興の希望となったカープは、10年以上の時を経て原爆投下の爆心地を本拠地としたのです。
 これ以降、現在のマツダスタジアムが誕生するまで、原爆が投下された8月6日に、カープが広島市民球場で試合をすることはありませんでした。原爆で家族や友人を亡くした多くの広島市民にとって、8月6日は死者の霊を慰める一日だったからです。1958年には原爆で倒壊した広島城の天守閣も再建されて、広島は原爆からの復興を着実に進めていきました。
広島カープの戦後史 - 涙の初優勝と「赤ヘル」黄金時代 -
 広島市民の熱狂的支持によって支えられたカープですが、セントラル・リーグの「お荷物」と呼ばれるほど弱い球団でした。創設1年目の勝率は3割に届かず、1968年にはじめてリーグ3位になるまでは、毎年のように最下位を争っていました。
 1975年、日本プロ野球で初めての外国人監督を招へいしたカープは、この年からヘルメットなどに使用するチームカラーを赤に統一しました。今に続く「赤ヘル」の誕生です。カープのマスコットキャラクターの「カープ坊や」も、1975年に登場しています。また、この年3月10日には、山陽新幹線が岡山から博多まで開通したこともあり、カープの東京への遠征の負担は、以前よりもはるかに軽くなりました。新幹線の開通までは、広島から東京まで8時間かかっていたのです(現在は4時間)。当時のカープの選手は、新幹線の開通に大喜びだったことでしょう。
 1974年まで3年連続の最下位に甘んじていたカープは、9月・10月の試合で19勝4敗4引き分けという驚異的な数字を残して、1975年10月15日に球団創設26年目のセントラル・リーグ初優勝を決めました。10月20日に広島市中心部の平和大通りで行われたカープ優勝パレードには30万人が詰めかけ、なかにはカープの優勝を待ち望んだ亡き家族の遺影を抱いた人もいました。当時の広島市の人口は約90万人だったので、広島市民の3人に1人が優勝パレードに駆けつけたということになります。
 カープは、1975年から91年までに、この初優勝を含めてセントラル・リーグ優勝6回、日本シリーズ優勝3回を果たし、かつての「お荷物」球団のイメージを一新しました。
 しかし、1993年に行われたプロ野球界の制度改革の影響で、カープは長い低迷期に入ってしまいます。
広島カープの戦後史 - 立ちはだかる困難 -
 1993年はカープにとって長い低迷期のはじまりとなりました。この年、プロ野球のドラフト逆指名制度(希望入団枠制度)とフリーエージェント制度が導入されたからです。それまで、プロ野球選手は、ドラフト会議で自分を指名した球団に入団する必要がありました。しかし、逆指名制度の導入により、アマチュアで一定の成績を残した有力選手は自分の希望する球団に入団することができるようになったのです。その結果、多くの有力選手は、逆指名制度を利用して、首都圏・近畿圏の人気球団に入団しました。
 追い打ちをかけたのが、フリーエージェント制度でした。一定期間同一の球団に所属して活躍した選手を別の球団に移籍できるようにしたこの制度は、有名選手の金銭による引き抜きを激化させることになりました。市民球団のため他球団に資金力で劣るカープは、多くの主力選手を他球団に引き抜かれたこともあって弱体化しました。
 逆指名制度とフリーエージェント制度によって有力選手を他球団に奪われたカープは、地道なスカウト活動により、選手の発掘に力を尽くしました。2016年の優勝の立役者となった黒田博樹選手、新井貴浩選手も、この時期にカープに入団しています。そして、2007年に逆指名制度が廃止されてからのドラフト制度を利用して入団した20代の若い選手たちが、カープの投打の中心を担いつつあります。
 1988年に日本初のドーム球場・東京ドームが誕生してから、各地でドーム球場が建てられました。1957年に建設されてから半世紀近く使用された広島市民球場は、水漏れ事故が起きるほどに老朽化がすすみ、来場者数も減り続けていました。そこで、広島県・広島市と地元財界の出資、そして市民が投じた1億2000万円の「樽募金」により、広島駅の東側に新球場を建設することになったのです。
広島カープの戦後史 - マツダスタジアムの完成 -
 2009年に完成したマツダスタジアムは、野球の本場アメリカのメジャーリーグの球場を参考に作られました。あえてドーム球場ではなく、従来型の球場としたため、天候によっては試合中止になることもありますが、広い空の下で野球を楽しめる球場として愛されています。マツダスタジアムの最大の特徴は、球場を一周できるコンコース(通路)が設置されていることです。そのため、他の球場とは違って、球場のあちこちに移動して野球観戦を楽しむことができます。お年寄りや障がいのある人も楽しめるように、バリアフリー化もされていますし、バーベキューをしながら観戦できる席や、寝転がって観戦できる席など、座席にもさまざまな工夫がされています。
 マツダスタジアムでカープの試合が開催されるようになった2009年、来場者数は前年の139万人から187万へと大幅に増えました。しかし、2010年以降の来場者数は減少を続け、2013年には156万人にまで落ち込んでしまいます。このため、カープは、より観客が球場に足を運びやすいように週末の試合をデーゲームにしたり、Tシャツをはじめとする多彩なグッズの販売を行ったりと、多角的な経営に乗り出して、ファンの拡大をはかりました。
 2013年、若手選手の台頭もあり、カープは16年ぶりに3位になりました。この年、首都圏の球場でカープを応援する女性ファンが急増し、「カープ女子」という言葉が流行します。2014年には来場者数が190万人と大幅に増加し、これ以降カープの人気は、全国にひろがることになります。
広島カープの戦後史 - 「ピースナイター」の開催 -
 2011年以降、8月5日あるいは6日のマツダスタジアムでのカープの試合は、平和への祈りを込めた「ピースナイター」として開催されています。この日は、トランペットや鳴り物などによる応援は禁止されており、試合中には原爆で亡くなった人への鎮魂のパフォーマンスが、来場者とともに行われています。
 2011年の「ピースナイター」の始球式では、広島で被爆した『はだしのゲン』の作者の漫画家・中沢啓治さんが、翌年の「ピースナイター」の始球式では、広島で被爆して姉を失った張本勲さんが、それぞれピッチャーを務めました。2015年の「ピースナイター」では、カープの選手が全員背番号「86」をつけて試合を行うなど、原爆からの復興の希望となった広島の市民球団として、今も市民とともにカープは歩み続けています。
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